何をもって真のクリスチャンといえるのか。いろいろな意見や考えがある。幼児洗礼を受ければクリスチャンだと思っている人もいれば、自分自身でクリスチャンになることを選択しなければならないと信じている人もいる。またある人たちは、どのように生きるかで決まると考えている。異なる教義や伝統、考え方はあるものの、世界全体で推定22億人のクリスチャンがいるとされている。では一体、何をもって「クリスチャン」となるのだろうか?
1. 真のキリスト教とは生き方である
ヨハネによる福音書13章17節にはこう書かれている。「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。キリスト教というのは、その時の変わりやすい気分や、絵文字のような簡単に使えるアイコンではなく、私たちの人生をキリストにささげてからの私たちの生き方そのものである。真のクリスチャンは、神の示す人生の道や、神ご自身の考え、そして最も重要なことに神の御心を求める。それは、神を第一の優先順位に置き、彼に信頼を置くことを喜んで行う人だ。
キリスト教そのものの土台や基礎を理解することは、さらに重要である。コリントの信徒への手紙第一15章13、14節にはこう記されている。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。この聖句は、キリスト教における必要不可欠な構成要素、すなわちイエスの復活についてスポットを当てている。真のクリスチャンはイエスの復活の信仰によって生きており、復活の信仰がなければその信仰は無意味であるのだ。
2. 真のクリスチャンとなるために、人は変わらなければならない
使徒言行録2章38、39節で、ペトロはこう言っている。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」
真のクリスチャンであるためには、あなたは「悔い改め」て、今までと違った生き方で歩まなければならない。罪の生活に戻り、クリスチャンでい続けることはできない。未来に向かって前進し、過去の生き方は捨て去らなければならない。コリントの信徒への手紙第二5章17節には、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と書かれている。
3. クリスチャンになることは、信仰によってのみであり、良い評価を得るための規則や良い行いのチェックリストを通してではない
エフェソの信徒への手紙2章8、9節にはこう書いてある。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。一度信仰がイエス・キリストの上に確立されると、真の関係が形成される。なぜなら、キリスト教信仰の土台はイエスだと知っているからだ。
自分がすることすべてにおいて神を信じることは、真のクリスチャンであることが何を意味するのかを理解するのに役立つ。エレミヤ書29章11節には、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」とある。クリスチャンは、他のどんな物や人よりも前に、神からの呼び掛けや召しを置く。神からの人生に対する呼び掛けは素晴らしいものをもたらすと、心の中ではっきりと知っているのだ。
4. 本当のクリスチャンになるためには、聖霊があなたの中に住まなければならない
パウロは、ローマの信徒への手紙8章9節に「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」と記した。真のクリスチャンには、キリストに似た者となることを助ける神の聖霊が内に住んでくださっている。この聖書箇所は、私たちの内に住む聖霊が、私たちを神につなぐものであることを思い起こさせてくれる。聖霊がいなければ、私たちは自分たちのアイデンティティーをキリストの内に確立することはできない。
クリスチャンであるということが、世間の定義や基準に支配されてはいけない。最も重要なことは、イエスをあなたの主であり、救い主であることを個人的に理解し、自分の人生における彼の重要性を理解することだ。世間が、あなたとキリストとの歩みに対して落胆させようとするとき、断固として拒否しよう。あなたの心にいつも神がおられるようにし、心の底から真摯(しんし)に彼に仕えよう。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16:7)のだ。