今日、真の友を得ることは難しい。人間関係が使い捨てであるかのような時代に、永続的で忍耐強い関係を持つことはまれなことになっている。しかし、神がデザインされた友情は本物であり、誠実で、生涯にわたりずっと続いていくものだ。
条件付きで自分勝手な関係は避けるべき関係であると、世界中どの教会の人でも、同意できるのではないだろうか。私たちの神は真の友情の神だ。神が私たちのためにすでにされたこと、またこれからされることは、私たちが互いの関係においてさらに成長していくためである。このことは、私たち自身が真の友となり、また真の友を求めていくことを促すはずだ。
では、血のつながっている自分の兄弟や姉妹よりも、深い関係にある真のクリスチャンの友となるには、何が必要だろうか? ここでは5つのことを見ていきたい。
境界線(バウンダリー)を設定する
もし、深い友情を築きたいのであれば、相手がクリスチャンであろうとなかろうと、私たちができる範囲で相手に仕えることが必要だ。また、これが真のクリスチャンの友なら、このことに関しては専ら賢明でなければならない。自分と相手との間に正しい境界線を引くと、現実的な期待を設定することになり、あなた自身だけでなく、周囲の人も守ることになる。箴言25章17節には次のように書かれている。「友人の家に足を運ぶのはまれにせよ / 飽きられ、嫌われることのないように」
尊敬する
尊敬とは、人の真の価値を見ることを意味する。私たちは人の価値をどのように見ているだろうか? 人の価値というのは第一に、キリストがその人の人生のために自ら進んで払った犠牲によって決定される。私たちは皆、その犠牲は、十字架上の私たちの主の死であることを知っている。神が見るように私たちが友を見るとき、尊敬は友人関係の中で自由に生まれてくるものだ。箴言11章12節には、「心ない者は友人を侮る。英知ある人は沈黙を守る」とある。
赦す
1つ確かなことは、誠実で真の関係にある友でも、つまずきとなることがあるということである。なぜなら、私たちは皆、欠けがあるし、不完全だからだ。しかし、私たちの不完全さの中で、神は私たちに兄弟姉妹を赦(ゆる)すよう求めている。エフェソの信徒への手紙4章32節は、「互いに親切にし、憐(あわ)れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と教えている。
戒める、訓戒する
箴言27章5~6節では次のように述べられている。「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。愛する人の与える傷は忠実さのしるし / 憎む人は数多くの接吻(せっぷん)を与える」。真の友は、愛をもって真実を話すことに問題はない。戒めは、人をけなしてあざけりたいという欲からは出ておらず、その人をより良くすることができる。本当の友だけが、誰かのためにそうすることができる。
支える
友人関係は、楽しくて良い時だけに構築されるのではない。苦難と試練の中にある時にも同様である。あなたは誰かにとっての本当の友になりたいだろうか? 良い時と同じように、悪い時にも誰かのためにいてあげることができる人になろう。箴言17章17節には、「どのようなときにも、友を愛すれば / 苦難のときの兄弟が生まれる」とある。