神は、聖書全体を通して、家庭や家族に常に重きを置いている。しばしば神は、ある家族や家系を用いて、自らの目的を果たすということを行われた。聖書の話の中で、神は1人の人を祝福されただけではなく、その人の家族全員、あるいは家系全体に祝福を与えられている。さらに、個人や教会だけにとどまらず、家族を守るように命じている。
家族は、社会における基本的な構成要素である。社会がそう望んでいる以上に、神がそう望んでおられ、定めておられる故だ。神にとって家族は重要であるため、家族の中にご自身を現すこと、またイエスが、全ての家庭の中心となることを望んでおられる。
では、家で一緒にいる時も、休暇で出かける時も、外に遊びに行く時も、家族が一緒になるあらゆる機会において、一体どのようにすれば、イエスがその中心となることができるのだろうか? ここに、私たちができる5つのことがある。
1. 一緒に祈る、互いのために祈り合う
キリストを中心にしていることのしるしは、神に対する信仰である。そして、キリストへの信仰は、常に忠実な祈りの中に現れる。親として、私たちは自分の子どもたちに、互いのために祈ることの大切さを教え励ますことができるし、そうすべきだ。そしてまた、親として、自分の子どもたちのために祈ることができる。一緒に祈ること、また互いのために祈り合うことは、神と家族の間を仲介し、神により頼んで成長する道を与えてくれるだろう。
2. 試練を聖書の真理を適用する機会とする
私たちの子どもたちが学校生活に苦労したり、友達とけんかをしたり、人生で希望がないと感じたりしたら、この困難な時を、神の主権と御力に関する聖書の真理を子どもたちに伝える機会として用いることができる。これは夫妻の間でも同じだ。自分の配偶者に神の約束を思い起こさせる最良で最善の人は、その人の夫、または妻である自分自身なのである。
3. 寛大になる練習の機会とする
私たちのために全てを喜んで犠牲にしてくれた人、イエス・キリストよりも寛大な人はこの世にいない。寛大な歩みをするということは、キリストの心で歩むことであり、また、キリストの性質を、自分の家族に対して鏡のように反映させることだ。もし、私たちが他者に対して寛大になるようにと招かれているなら、私たち自身の家族に対してはそれ以上に寛大であるように招かれているということなのだ。
4. 顔と顔を合わせたコミュニケーションの場とする
今日、世の中は、ソーシャルメディアやさまざまな娯楽、すぐに気晴らしになるものであふれ、家族の時間がそういったものに侵害され、顔と顔を合わせた、心からの直接的な交わりを持つことが困難になっている。しかしながら、私たちが全身全霊で、良い関係を築くことに互いによく心を割き、専念するとき、神は最も栄光を受けられる。なぜなら、私たちが、神の持つ関係やコミュニケーションに対する価値を反映するからだ。
5. 心に憐(あわれ)みのスペースを持つ
私は、真実を話すとき、恵み、憐みを持ちつつ行動することがいかに大変であるかを知っている。しかし、それはまさにイエスがしてくださったことなのだ。私たち自身の能力とやり方によれば、恵みや憐みというものは普通、勝手に湧いてくるものではない。だが、真に私たちが御霊と神の知恵の中に歩むとき、恵みや憐みが自然に現れ、それら自らが家族に対して証しをするのだ。