聖書を読んでいるとき、何かがひらめく時がある。まるでわずか数行の御言葉に光がさすかのように、単に文字上の意味だけでなく、その御言葉が自分にとってどのような意味を持つかを、一瞬のうちに完全に理解できるのである。
それは人生を変えるようなことかもしれないし、比較的ささいなことかもしれない。それがどちらであっても、神が自分に語り掛けていることだと分かる。そのような場合、あなたはどうするだろうか。
御言葉を読み解き、そのことについて祈り、聖書を閉じて、御言葉に示されたことを行っていくかもしれない。あるいは、人生は忙しいからと言って、御言葉をすっかり忘れ、光が差してきたあの瞬間はその時限りになってしまうかもしれない。
御言葉を蓄えるためのかなり単純な方法がある。それは書き留めることである。ちょっとした走り書きのメモでも、別な機会に聖書の同じ個所を読むと、最初に読んだ時に感じたことを思い出すのに十分役立つことがある。走り書きはどこにするか、それは明らかに聖書そのものに、である。さまざまな理由で聖書にメモをしない人が多い。聖書は読むものであって書き込むものではない、という信念に反すると言う人もいれば、余白が小さ過ぎるので書き込むのには適さないと考える人もいる。そうした人には、たとえば英ホッダー社から出ている『NIV Journaling Bible(NIVジャーナリング・バイブル)』をお薦めする。この聖書には、読者がメモ、思い付き、感想などを書き留めるのに十分な余白が用意されている。
聖書にメモ書きする3つの利点
1. 心にしっかりと御言葉を焼き付けることができる。書き留める行為は思ったことを明確にし、それを思い出しやすい形にする。そのこと自体が霊的訓練となり、諸問題をじっくりと考え、心の中により明瞭に形として残してくれる。長々と細かく書き留める必要はない。メモ書きは、そもそも自分のためで、広く誰かに見せるためではないのだから。それによって、感じたことや思ったことを把握するのに役立つのである。
2. 神との関係を記録することができる。多くの人は家族写真のアルバム(今ではデジタル形式のアルバム)を持っているだろう。それによって、自分たちや他の人たちが、年月がたつにつれて、どのように変わっていったかをたどることができる。私たちは今の自分と過去の自分を比較したいと思う。これまでの人生を振り返りたいと思う。親は子どもの成長に従って壁に身長の印をつける。成長の記録である。聖書に書き込むのはそれと似ている。数年前に考えたことを振り返り、今とは考え方が違っていると認識するのだ。
3. 宣教のための材料にできる。私たちが皆、聖職者となって説教台に立つという召命を受けるわけではないが、全ての者は「(神の)知恵を獲得する」ように命じられている(箴言4:7)。御言葉を学ぶときに、神に示されたことを書き留めておくことによって、聖書の知識を築き上げ、御言葉が今日私たちに語っていることが何かを知ることができる。こうして得た知見を互いに分かち合い、神から示されたことを用いて、他の人たちを祝福することができる。
御言葉を読むとき、神は私たちにまさに語り掛ける。その言葉を書き留めることは、私たちの神に対する責任の取り方でもある。私たちは神からのメッセージをあまりにも頻繁に忘れてしまい、それを実行しないことが多い。
ヤコブはその手紙に、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」(ヤコブ1:23~25)と書いている。