ペテロは復活されたイエス様に出会った後も、イエス様の元を離れ、漁をしていた以前の漁師の人生へと戻っていきました。そんなある日、魚をとろうと一晩中、網をおろしましたが、たったの1匹もとれませんでした。
「シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』彼らは言った。『私たちもいっしょに行きましょう。』彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。(ヨハネ21:3)
3年前、ペテロがイエス様に初めて会ったときも、この時のように一晩中網をおろしましたが1匹の魚もとれませんでした。
「するとシモンが答えて言った。『先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』」(ルカ5:5)
イエス様から離れた人生、イエス様のいない人生は、空っぽの網、空っぽの船の人生です。主と共に行わず、私たちの力だけで行う努力はむなしさと絶望で満ちた網だけを上げることになります。イエス様のいない人生における努力は無益であり、むなしいものです。
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(詩篇127:1)
イエス様のいない人生は、絶望そのものです。しかし感謝なのは、「絶対絶望」に陥った人間を救うために「絶対希望」なる神の独り子イエス様がこの地に来られたということです。テベリヤの湖畔に日が昇り始めました。もう漁をやめて戻る時間でした。「もう終わりにしよう」と考えながら空っぽの網だけを引き上げていたまさにその時、イエス様がペテロを訪ねて来られました。
「夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった」(ヨハネ21:4)
イエス様は、成功したペテロではなく、失敗したペテロを訪ねて来られました。もし私たちの前に失敗が置いてあるなら、まさにその時こそイエス様に新しく出会うべきときであるということを知るべきです。イエス様は、私たちが成功したときだけでなく、失敗したとき、重病にかかって体を支えることができないとき、信じていた人に裏切られたときに訪ねて来てくださる方です。私たちを慰められ、失敗を成功に変えてくださるために私たちを訪ねて来られます。
ジョン・ウェスレーの有名な逸話があります。ウェスレーが6歳だった1709年2月9日夜11時ごろ、彼の家族が住んでいた牧師館が火事になりました。両親と他の兄弟たちはみんな起きて外に避難しましたが、2階で寝ていた幼いウェスレーは出て来ることができませんでした。
ほどなくして眠りから覚めたウェスレーは、窓際に立って助けを呼び、それを見た隣人が入っていってやっと彼を救出することができました。そしてウェスレーが助け出されるや否や、燃えていた家はすぐに音を立てて崩れ落ちました。
大人になったウェスレーはあの危機の瞬間、隣人を通して自分を訪ねて来て助けてくれた主の恵みを使命の原動力としたそうです。それでウェスレーは、ミニストリーの時によく自分が火事から助け出されたことを話しながら、自分を「火から取り出した、焼け残りの木」と表現しました。
主は私たちが危機に瀕しているとき、私たちを独り捨て置かずに訪ねて来てくださいます。主はいつでも私たちを先に訪ねて来てくださる方です。罪を犯したアダムにも神様が先に訪ねて来られて、「あなたは、どこにいるのか」(創世記3:9)とおっしゃられました。弟を殺した最初の殺人者カインにも神様が先に訪ねて来られて、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」(創世記4:9)と尋ねられました。落胆してしまったエリヤにも神様は先に訪ねて来られて、「エリヤよ。ここで何をしているのか」(Ⅰ列王記19:9)と仰せられました。
イエス様は38年間病気だったベテスダという池にいた者の元にもやって来られました(ヨハネ5:6)。エマオに行く途中の2人の弟子にも訪ねて来られて彼らと共に歩いてくださいました(ルカ24:13~15)。失敗したペテロを訪ねて来られた主が問われました。「子どもたちよ。食べる物がありませんね」(ヨハネ21:5)。これに対してペテロは次のように答えました。「はい。ありません」(ヨハネ21:5)
主は今日、私たちに聞いておられます。「あなたたちが労苦して得たものは何か」
今日、多くの人々がペテロのように失敗と絶望のテベリヤ海で網をおろす人生を送っています。その網にかかったものは何1つありません。主が共におられなければ、どんなものも得ることはできません。それで「絶対絶望」に陥った私たち人間を救われるために「絶対希望」なる神の独り子イエス様がこの地に来られたのです。イエス様は今日も私たちを呼んでおられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
主が共におられるなら、私たちが失ってしまった信仰を取り戻すこととなります。失ってしまった喜び、失ってしまった情熱、失ってしまった幸せを再び取り戻します。復活されたイエス様は絶望と失意に満ちた私たちの人生に訪ねて来てくださり、復活の新しい命を下さる方です。1匹の魚もとれなかったペテロに対してイエス様は、網を船の右側におろすよう仰せられました。
「イエスは彼らに言われた。『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。』そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」(ヨハネ21:6)
ペテロが主の命令に従って網を船の右側におろしたとき、網を引き上げることができないくらいの多くの魚がとれる祝福を受けました。主が共におられれば、空っぽの網が満ち溢れ、失敗が成功に変わって奇跡が起きます。
『あなたのいない人生は空っぽの網です』の著者、オ・ヘリョン氏は愛される劇作家であり、放送人であり、俳優でした。1960~70年代にかけて「星が輝く夜に」というラジオ・プログラムの作家兼DJとして活躍していた彼女は、売れっ子の有名人でした。ミッション・スクールに通ったおかげでイエス様については知っていましたが、信仰がなくてあちらこちらに網ばかりをおろす、イエス様のいない人生を送っていました。
そんな中、胃がんとリンパがんで残り3カ月の命と宣告されてしまいました。その後、毎日カレンダーに色鉛筆で印をつけながら、死ぬ日が来るのを待ってばかりいました。3カ月が過ぎようとしていたある日、「希望を捨てないで」というメモと共に百合の花を50本もらいました。30分ほども花に顔を埋めてじっとしていると、頭の中がもうろうとしてきました。
ところがその時、どこからか突然、自分の首根っこを強く引っ張る手の動きを感じました。途端に何もできず、床に倒れ込みました。オ・ヘリョン氏は直感的に、生きているイエス・キリストが自分を訪ねて来られたと感じました。条件反射的に叫びました。「死の真っただ中にまで訪ねて来られるあなたは誰ですか?」
彼女はその時突然、主と共に歩まなかった自分の人生を1つ、2つと思い浮かべ始めました。主を無視し、自分勝手に生きた罪に対する恐れが襲って来ました。最初はどこから悔い改めるべきか分からず、涙ばかり流しました。しかし、すぐに自分の罪を1つ、2つと悔い改め始め、残り3カ月と宣告された期間を過ぎてからも半年近く生きることができました。ところがある日、祈りと賛美をしながら独りで礼拝をささげていると、全身に悪寒がしてきました。
「ああ、そろそろ死ぬ時間か」。あまりにも寒くて布団をかぶりました。ところが、驚くべきことに脇近くに感じることができたリンパがんのしこりが感じられませんでした。肩にあった桃の種ほどの大きさのしこりも無くなり、腹水がたまって膨れていたお腹も萎んでいました。イエス様が彼女を癒やしてくださったのです。
それからオ・ヘリョン氏は新しい人生を生き始めました。もうそれ以上、自分の名のために生きることはしませんでした。現在はキョンギドのある小さな町で、疎外された老人のために「平和の家」を建て、彼らに仕えながら生きています。1日に9時間、祈りで主と交わりを持ちながらの生活です。オ・ヘリョン氏は次のように告白します。
「主のいない人生という湖に網をおろして魚がとれるのを待っていた過ぎし日々は死の時間でした。おお主よ、これからは主が網を満たしてください。そうすれば、私は生きることができます。人生のど真ん中に立っておられるよみがえりの主よ、主なしに一生涯苦労してみても、私たちの人生は空っぽの網です・・・。毎日、湖畔にて私たちを待っておられる主を見せてください」
私たちの船がひょっとして空っぽの船ではないか、確認してみる必要があります。主はその空っぽの船を訪ねたいと願っておられます。空っぽの船にやって来られた主に会わなくてはなりません。そして、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」(ヨハネ21:6)、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」(ピリピ4:6)とおっしゃる御言葉に従わないといけません。そうすれば、空っぽの船が満たされるのです。失敗は成功に変わり、絶望は希望に変わるのです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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