教会の礼拝にとって欠かせない賛美歌。マルティン・ルター(1483~1546)自身も作り、宗教改革の広がりに大きな力を与えたと同時に、宗教音楽の発展にも影響を及ぼした。バッハ研究者として知られる音楽学者で、明治学院歴史資料館研究調査員の加藤拓未(たくみ)さんは、「カトリックではグレゴリオ聖歌、プロテスタントではコラールが音楽的遺産」と話す。今回、ルターの賛美歌を源流とするルター派の音楽家たちの歴史をひもといてもらった。
500年前、ルターが礼拝改革を進める中で行ったのは、ドイツ語で説教を取り次ぐことと、会衆と共にドイツ語で賛美歌を歌うことだった。宗教改革以前は、聖歌は教会専属の音楽家と聖歌隊によって歌われ、会衆は黙って聞くというスタイルだった。それに対してルターは、ドイツ語で賛美歌を作り、誰でも歌えるようにした。信仰の思いを歌う賛美歌は説教を補うことになり、プロテスタント教会全体に共通する礼拝の特徴となった。
ルターが同僚たちにも賛美歌を作るよう呼び掛けたことから、膨大な数の賛美歌が生まれ、民衆が歌う賛美歌は「コラール」と呼ばれるようになる。音楽愛好家だったルターは、自分でもコラールを作詞し、そのうち幾つかは作曲もしたが、それを最初に質の高い芸術的作品へと発展させたのは、良き協力者であった音楽家ヨハン・ワルター(1496~1570)。現在でもルター作のコラールをもとにワルターが編曲したモテットが伝わっている。
16世紀後半から17世紀にかけてドイツでは、ルターの流れを継いだたくさんの優れたコラールの作詞家、作曲家が輩出される。スリーエス(3S)と呼ばれるドイツの初期バロック時代のハインリヒ・シュッツ(1585~1672)、ヨハン・シャイン(1586~1630)、ザムエル・シャイト(1587~1654)もこの時代に活躍した。
「音楽の父」と称されるヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750)もルター派の音楽家だ。ルターの死後約140年たってから生まれたバッハも、コラールを素材としたカンタータを1725~26年にかけて集中的に書いている。加藤さんは、バッハが音楽面でルターから影響を受け、ルターと切っても切れない関係にあるというのは、このコラールの存在部分が大きいと話す。「ルター派の音楽家はコラールを大切にします。バッハも例外ではありません。これはルター派のトレードマークのようなものです」
バッハの受難曲や、カンタータ、オラトリオ、オルガン曲と、教会音楽のすべてのジャンルに用いられていることからも窺(うかが)えるように、コラールがルター派の教会音楽を発展させたともいえる。バッハの「マタイ受難曲」を復活演奏させたドイツロマン派の作曲家メンデルスゾーン(1809~1847)も、交響曲第5番「宗教改革」でルターが作ったコラールを取り入れ、その他にもコラールを取り入れたオルガン曲を数多く作っている。加藤さんは、ルターのコラールはルター派の音楽家たちの中に脈々と受け継がれているという。
さらに、コラールとともにルター派の音楽家にとって重要な音楽として「受難曲」を取り上げた。日本で演奏される受難曲といえば、バッハの「マタイ」「ヨハネ」の両受難曲くらいだが、バッハのもの以外にもたくさんの受難曲が残されている。「受難と復活はキリスト教の根幹。そのことを明確に表す受難曲は、宗教音楽の最重要テーマです。特にルター神学が十字架のイエスの行為を重んじていることから、受難曲がルター派で発展したという歴史があります」と、ルター派の音楽家がたくさんの受難曲を書いていることを明かした。
また加藤さんは、バッハの「マタイ受難曲」は、彼より約10年前に生まれたラインハルト・カイザー(1674~1739)が作ったとされる「マルコ受難曲」から影響を受けていると考えている。「この作品がなければ、『マタイ受難曲』はなかったでしょう。バッハは孤高の大音楽家ではなく、周りの音楽家たちの影響を受けて音楽を作っています。誰でも人から学び、それを後世に伝える。天才バッハも同様です」
ただ、たとえ先達(せんだつ)の作品をまねたとしても、バッハの作品の輝きはあせることはない。そこがバッハのすごいところで、加藤さんが目指しているのは、そのバッハのすごさとは何かを極めることだ。現在では特に「マタイ受難曲」に注目し、その作品の「どこまでが前の時代から受け継いだもの、当時の普通の音楽で、どこからがバッハのまったくのオリジナルか」を線引きする作業に力を注いでいる。「バッハの秘密を探るために、どういうところがバッハの真骨頂なのかを知りたい」と、研究者としての強い思いを語った。
音楽の歴史を見ると、ミサ曲が国際的な様式に基づいてヨーロッパ各地で作られたのは、西暦1450年あたりから始まるルネサンス時代。その後、バロック時代になるとオペラが作られるようになり、古典派・ロマン派の時代になると、協奏曲や交響曲が作られる。現代ではジャズやロックなども加わり、まさにジャンルが増えるのが西洋音楽の歴史だという。しかし、「どんなにジャンルが増えても、宗教曲が本流であることに変わりはない」と加藤さんは話す。その一例がポール・マッカートニーのクラシック・アルバム「リヴァプール・オラトリオ」(1991年)だ。ポールが宗教音楽を手掛けたのは、「どんなに世俗音楽を極めても、それだけでは物足りなさが残るからではないか」と加藤さんは見る。
加藤さんは学生時代にバッハの魅力にとりつかれて以来、バッハを中心とする西洋音楽史(オラトリオや受難曲など)を研究してきた。研究の性格上、常にキリスト教は身近にあり、聖書の知識も豊富に持っているが、信仰と研究は相いれないものと考えてきた。しかし、大学時代に経験したある不思議な出来事が「神様の力」であったことに気づいた時、その救いにあずかりたいと心から思い、昨年のクリスマスに日本福音ルーテル大森教会で洗礼を受けた。「どんなに世俗音楽を極めても、物足りなさが残る」というのは、イエス・キリストに出会った加藤さん自身の思いでもあるだろう。
カイザーが作ったとされる「マルコ受難曲」は、ドイツやスイスでは教会で毎年演奏されているが、日本ではまだ演奏されたことがない。加藤さんは、バッハが愛したこの作品を紹介したいと、自らが監修となり、日本初の演奏会を開催する。「バッハがこの曲に惹(ひ)かれた理由を、聴きに来られた方と考えてみたいと思っています」と力を込めた。
伝ラインハルト・カイザー『マルコ受難曲』(主催:東京マルコ受難曲合唱団)
日時:6月11日(日)午後3時(午後2時開場) 午後2時15分からプレトークあり。
場所:保谷こもれびホール(東京都西東京市中町1-5-1)
料金:前売り3500円 / 当日4000円 全席自由
予約・問い合わせは、オフィスアルシュ(電話:03・3565・6711)、イープラス、東京文化会館チケットサービス(電話:03・5685・0650)、東京古典楽器センター(03・3953・5515)、保谷こもれびホールチケットセンター(窓口販売のみ)まで。