By Dr. K. Kinoshita(木下和好)
YouCanSpeak 開発者・同時通訳者
元NHK TV・ラジオ 英語教授
外国語習得に強い意欲を持たせる2大要因がある。1つは絶対的な必要性を感じること。もう1つは興味とワクワク感だ。後者は夢とかあこがれがその発端となる。必要性とワクワク感が揃えば鬼に金棒となり、諦めさえしなければ、英語を習得できる。
<アル中の父の夢が私の夢に>
私の父はアル中で、酒を飲まなかった日は1日もなかった。終戦直後はどの家庭も貧しかったが、父は月給を前借りしてでも飲んでしまうので、わが家は極貧状態だった。でも酒乱ではなかったのが不幸中の幸いだった。適度に酔っぱらうと口が軽くなり、若い頃の残念な体験談を何度も話した。やがてその話が私の人生に大きな影響を与えることになった。
父は長崎で(私が会ったことがない)祖父と2人暮らしをしていたが、長崎港にやって来る外国船を見て外国に強い憧れを抱くようになった。10代半ばの時、チャンスが巡って来た。イギリスの豪華客船が入港したとき、待遇改善を訴えて船員たちがストライキを起こし、下船してしまった。困った船会社は、急きょ長崎の若者の募集を始めた。
父は迷うことなく応募し、いよいよ夢がかなうところまで来た。でもそれを聞いた祖父は猛反対し、強制的に父を「ふくさや」というカステラ店に就職させてしまった。父親に逆らうことができず、父は外国に行くという夢を諦め、カステラ職人の道を歩み始めた。やがて文明堂の初代社長に東京に連れて行かれ、文明堂の初代カステラ職人の1人になった。途中別の仕事に就き、静岡県清水市に住むようになったが、やがて静岡でカステラ職人に戻り、カステラ職人として生涯を終えた。
外国船に乗るチャンスを奪われたときの話を何度も聞かされているうちに、父の無念な気持ちが私の心の中では「海外のいろいろな知らない国々に行けたら何て素晴らしいんだろ」という夢物語になり、私も同じような憧れを抱くようになった。
<長崎と清水は似ていた>
父は長崎で外国船を見ながら育ったが、私も別の場所で外国船を見ながら育った。私は最近世界遺産に登録された静岡県清水市(今は静岡市清水区)の「三保の松原」のすぐそばで生まれ育った。三保の海岸から外国船が往来するのを毎日のように見ることができ、近くの清水港にはいつも外国船が停泊していた。
そういう環境の中で父の話を聞くと、現実味に溢れ、自分のことのように響いた。そして幼い私の胸の中にも「いろいろな知らない国に行ってみたい」という夢とあこがれが芽生え始めた。もし外国船とは無縁の地域に住んでいたなら、父の「無念な話」は私の「夢の話」にはならなかったかもしれない。
<ワクワクさせた要因>
父の夢が乗り移った私は、とにかく外国にあこがれた。でも幼い私にとっての外国は、外国船と外国人船員だけだったが、頻繁に外国らしさを見ることができた。三保の松原は私の遊び場で、海岸の砂浜に寝そべりながら航行する船を見るのが何よりも楽しかった。大きな船のほとんどは外国船で、水平線から静かに現れたり、はるかかなたの水平線に消えて行ったりした。
私は、近づいて来る船よりも、遠ざかる船に思いを寄せた。なぜなら、遠ざかる船の行先は憧れの外国だと分かっていたからだ。自分も今あの船に乗っていれば確実に外国に行けると思うと、見ているだけでワクワクした。
私にとってのもう1つの外国は、船上でいろいろな作業をしている、あるいは停泊中に街を散策する外国人船員たちだった。港に遊びに行くと、彼らの肉声を聞くことができた。彼らの話し声を聞くと、本当に外国に行った気分になり、彼らが住む国に行ってみたいという気持ちがますます高まった。
<あこがれは錯覚をもたらす>
私はある時、日本の海の東の方にアメリカがあることを知った。アメリカという国のことはよく知らなかったが、私はなぜかアメリカに一番憧れ、アメリカという発音を聞いただけでワクワクした。
ところで、幼い私にとっての日本の海は、三保の松原から見える駿河湾だけだった。日本の海の東の方にアメリカがあることを知った私は、その後しばしば肉眼でアメリカが見えるという感動的な体験をした。晴れた日には海の向こうにアメリカの山々がくっきり見えた。
私は船が往来していないときでも、アメリカを見るだけで心が躍った。後で分かったことだが、アメリカと思った山々は、本当は伊豆半島だった。でも、アメリカと勘違いした伊豆半島は、確実に私の夢を膨らませてくれた。
外国に対するワクワク感は、もう1つの幻想を生み出した。幼い時に出会った外国人は皆、私の知らない言葉をしゃべっていた。日本語しか知らなかった私は、分からない言葉はすべて英語であると思い込んだ。そして、私もあの分からない言葉、すなわち英語を話さないと、外国に行ったときに困ると思い、英語にもあこがれを感じるようになった。
でも、英語を話すことは特に難しいと思わなかった。自分が分からない言葉をしゃべれば、それが英語と勘違いしていたからだ。私は勘違いを超えて、幼稚園で訳の分からない言葉を話し始めた。友達にそれが英語であると教えてあげると、私と同じように英語にあこがれていた友達も、私が発した言葉を真似して言うようになり、一時的ではあるが、幼稚園中が「でたらめ言葉」で満たされた。
今考えると友達に申し訳ないことをしたと思う。
<現実とのギャップ>
幼い時に外国にあこがれ、英語に強烈な興味を抱いた私が、実際に英語に触れることができたのは、ずっと後のことだった。英語を覚えたくても習うことができない2つの理由があった。その1つは、私の周りに英語が話せる人が1人も存在しなかったこと。家族・親戚をはじめ、近所の人たちも、あるいは学校の先生であっても誰1人英語が話せなかった。それで本場の英語がどんな響きなのかを知ることすらできなかった。
もう1つは、家が極貧状態で、習い事は一切不可能だったこと。小学校中学年ころになると、アメリカに3~4カ月滞在したことのある近所の夫婦が、自宅で英語教室を始めた。実際彼らがどれだけ上手に英語を話すことができたのは分からないが、当時アメリカ帰りといえば雲の上の存在で、かなり大勢の子どもたちが習い始めた。私も友達に誘われて1度見学に行ったことがあるが、入会することは経済的に不可能だった。
英語を覚えるチャンスはなかなか巡って来なかったが、英語を話したいという私の夢が消滅したことは1度もなかった。(続きは後で)
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