「・・・イエスはナインという町に行かれた。・・・やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。・・・主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、・・・『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、『大預言者が私たちのうちに現れた』とか、『神がその民を顧みてくださった』などと言って、神をあがめた」(ルカの福音書7章11~16節)
主の癒やしを語るとき、単に病気が治るとか、痛みがなくなるということだけで終わりません。イエスが、死そのものを取り扱われ、死人さえ生き返り、癒やされるという記事が、特に福音書の中に幾つも書かれていることを忘れてはいけません。小さく萎縮した心ではなく、聖書が伝えている通りの豊かさ、神の恵みの大きさを意識したいと思います。
イエスの一行がナインという町に行ったとき、葬式の行列に出会いました。ご主人に先立たれたのか、やもめである母親の唯一の望み、かけがえのない独り息子が死んだ葬儀でした。イエスは母親を見てかわいそうに思い「泣かなくてもよい」と言われ、近寄って棺桶に手をかけ、「起きなさい」と言われたのです。すると、死んでいた青年が起き上がって、ものを言い始めたので、人々は恐れおののいたという記事です。ここから、3つのことを覚えましょう。
1. 神にはどんなことでもできる
主の癒やしの恵みは死の領域まで拡大し、人にはできない、絶望だというところにまで主は希望をもたらされたのです。人間的な常識で、自分で枠を決めるのではなく、主は、死んでいる者さえ生き返らせると信じ、私たちの信仰の器を精いっぱい拡大したいのです。今の知識がすべてではなく、神の中にある知識や力は豊かで力強いものであることを認めましょう。この病は治らないと決めつけず、神には何でもできるという信仰を拡大しましょう。
2. 主の愛にとって小さ過ぎる者はいない
偉大な主、イエス・キリストが、とことん愛を持って接してくださることを感謝したいのです。たった独りの息子を失い、涙に暮れている彼女を主はかわいそうに思い、普通の人なら忌み嫌う棺桶にまで手を触れました。私たちの目にどんなに価値のない者のように見えても、主の愛にとって小さ過ぎる者はありません。弱さを抱える私たちのことをかわいそうに思い、愛し、涙さえ流してくださるお方です。
あなたが祈るとき、主の愛は、あなたに向けられています。たとえあなたが誰からも忘れ去られた存在であっても、主はあなたを愛し、愛と力を注いでくださることを感謝しましょう。
3. 神が私たちのところに現れてくださった
その後、皆は恐怖を抱いて、大預言者が現れた、神が私たちを顧みてくださったと言って神をあがめました。その人々には、イエスが何者かは分かっていませんでした。十分知りもしないで語った言葉でしたが、実は、正しかったのです。確かに、神が私たちを顧み、弱い私たちを憐れんでくださったのです。イエスが、私たちの罪を背負って十字架で死に、死の力を打ち破ってよみがえってくださったのは、神が私たちと共におられ、顧みてくださることの現れです。
癒やしを求めるとき、イエスの命は、私たちの体を本当に生かし、救いと命を与えてくださるのです。確かに主なる神が私たちのところに現れてくださったのです。この、主の御業を今ここで、私たちも体験しようではありませんか。
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