エジプトの人口は約9300万人(2016年、UNDATA)。その80パーセント以上がイスラム教徒だが、残りはキリスト教徒、特にコプト正教徒がその大部分を占めている。
エジプトのキリスト教の歴史は古く、カイロに次ぐエジプト第2の都市アレクサンドリアは重要な拠点として、エルサレム、ローマ、コンスタンティノポリス、アンティオキアとともに5大総主教座の1つとなった。伝承では福音書記者マルコが福音を伝えてアレクサンドリア教会を創設し、この地で殉教したといわれている。
そもそもエジプトは「出エジプト記」もあるように聖書の舞台。新約でもマタイ福音書は、聖家族がヘロデの手を逃れてエジプトに避難したというエピソードを記している(2:13~15)。
また、マルコ以前にも福音がエジプトに伝わっていたことは、使徒言行録などの記述からもうかがえる。まず、ペンテコステの日にエジプトからやって来たユダヤ人がいたので(使徒2:10)、彼らがキリストの死と復活を伝えただろうことは想像にかたくない。また、「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」(18:24)ともある。
さて、451年のカルケドン公会議のときに、アレクサンドリア教会は分離することになった。そこではキリストの受肉について話し合われたのだが、キリストは1つの位格の中に神性と人性の2つの性質があるというキリスト「両性論」が採用された。一方、アレクサンドリア教会は、キリストの神性と人性は分割、融合、変化することなく、合一した「人として受肉した神」とする「合性論」という理解を持っていた。それが、人性は神性に融合・摂取されて単一の性となったという「単性論」と誤解されたこと、さらに当時のアレクサンドリア教会とローマ教会が政治的に対立していたことが原因で分離することになったのではないかと言われている。近年では東方正教会、カトリック、プロテスタントでも、コプト正教会への理解が深まっている。
「コプト」というのは、7世紀にアラビア人が入ってきてエジプトのキリスト教徒のことを「クブト」(qubt)と呼んだことに由来する。この地は砂漠という風土の中で修道制が育まれてきたこともあり、コプト正教会では今もその修道制の伝統が豊かに息づいている。
日本では2004年からコプト正教徒の留学生のための礼拝が持たれるようになり、16年、京都府木更津市に聖母マリア・聖マルコ日本コプト正教会が開設された。
一方エジプトでは、就職や結婚に際して少数派のコプト正教徒は不利な立場に置かれることが多く、キリスト教からイスラム教への改宗や、国際化時代における国外への移住によってエジプト国内の会員が減少しているという問題がある。