[神・信仰]
常に新しい教えにチャレンジする
人は常にと言っていいほど、2つの考え方に出会うものです。1つは楽な方へ、もう1つはチャレンジする方へです。これをすれば自分が得か、それとも損か、でも本当に自分の一生にとってどちらが良いか――そこまで深く考えているかどうかは分かりません。また、いつも冷静にそこまで考えられているか疑問です。
リスクは成長にとって欠くことのできない栄養なのです。リクスなしには、人間大きな進歩もないのです。チャレンジしてこそ人生が豊かになり、感動的、生き甲斐(がい)のある人生になるのです。
常に自分の欠点がよく見える人、常に問題は自分のための学びであると立ち向かえる人。このような心構えが常にある人は、前向き、肯定的、全ての難問を喜んでチャレンジできる人なのです。このような人は毎日が充実しています。くよくよしていません。自信に満ちています。
聖書の教えによると、自分にとって良いことと思っても神にとって良くないことは、やはり良くないことなのです。神は心を見られる。神の教えは全て愛からスタートしています。クリスチャンの不便は神の便利、クリスチャンの苦しみ、悲しみ、痛みは神の栄光のためになるのです。
時に、小さな得した心は、一時的に喜べるように思えますが、長い目で見ると、決してそうでもないことがあるのです。キリストの故に、今まで得と思えたことが、今は損と思えるようになったとパウロは言っています。神の喜びを喜びとする。新しく生まれ変わった人、日々神の管理に委ねている人は、自我が小さくなっていきます。自分の主張も少なくなっていきます。常に神に聞き従う心の準備ができていきます。
いまだ中国のクリスチャンには迫害があります。迫害がなければ、恐れもありません。迫害を受けられる人は幸いなのです。クリスチャンで神のために命をささげる準備ができている人は幸いな人です。クリスチャンの死は地上から天国への引っ越しです。クリスチャンにとって怖いのは、もはや肉体の死ではなく、天国への引っ越しの意味が分からないことなのです。
洗礼を受けたとき、すでに私たちはキリストと共に1度死に、水から上がって復活したのです。もはや肉体の死は怖くないのです。魂は救われました。天国へのチケットは手に入れたのです。ですから、この肉体は神の福音の道具として、神のために使っていただくことが、一番神の喜ばれる生きたささげものなのです。神は時に、未信者の救いのために信者の命をも使うのです。