――監督は、キリスト教や宗教についてもともと興味をお持ちだったんですか?
実は、大学は文学部の歴史学科だったんですが、卒業論文で「人間の死生観と葬送儀礼」について書いたんです。
10代の頃から「死ぬこと」に関心があったんです。動物の中で「観念としての死」を認識できるのは人間ぐらいかもしれない。つまり時間の感覚を認識できないと死も認識できないけど、それによって生み出される苦しみの方がむしろ多いのではないか。自分にはいずれ死がやってくる、ということが人間にものすごく大きなインパクトだった。死への防衛本能として宗教が生まれたのではないか。生を死のその先に延長させるための説得力を持つものとして、宗教の世界観や教義、葬儀の中の形式ばった儀礼が求められたのではないか。そんなことに興味を持って書きました。
――映画監督さんはそういうところに興味を持たれるんですね。西川美和さんは卒業論文で「地獄の責め絵」について書かれたと読んだことがあります。
そうなんですか。たまたまだと思いますけど(笑)。論文のために世界中の葬送儀礼の本とか死についての本ばかり大量に借りてきて、部屋がそんなのばっかりだったから、家族は相当心配してましたけど(笑)。
――「淵に立つ」では、とても印象的に賛美歌が使われていますよね。あの曲は日本聖公会(アングリカンチャーチ)の聖歌集527番として教会の礼拝でも歌われているんですよね。
スコットランドの「美しき牧場(まきば)の堤」という曲ですが、賛美歌として歌われていることは知らなかったんですよね。インターネットで音楽をいろいろ聞いていて、最初に聞いたのは日本語の歌詞がついたバージョンでした。歌詞が面白かったし、曲のトーンも映画のテーマである“暴力性”の正反対、最も遠くにあるものだと感じたので決めました。
――浅野忠信さん演じる八坂が、あの歌を口ずさむシーンが怖いですよね。一番怖かったです・・・。八坂がオルガンであの曲を弾いて蛍ちゃんに教えますよね。私はもうてっきり八坂はクリスチャン家の息子か元牧師なのかなと思ったんです。
八坂の過去は特に考えていないんです。ただ僕も、子どもの頃、少しピアノを習っていたので・・・程度の気持ちでした。実際に殺人を犯された無期懲役の死刑囚の方が書かれた本を読んだりもして、それを参考にしました。暴力団として生きていて、とても頭の良い方だったけど、知人が金を返さないのに腹を立てて殺人をして、無期懲役になった。そして獄中で回心して、自分のことについて書かれた本なんです。
とても頭が良いし、なぜ自分があんな犯罪を犯したのか自己分析をものすごい冷静にされている。それを読んで「そこまで自分を律していると信じている人間でも、ふとした時に自分をコントロールできなくなるのが人間である。自分のことをコントロールできていると信じている人間ほど危ういのではないか」と感じて、そういう人物として八坂を作ったんです。
――観客がそれぞれの受け止め方をするのが映画の力だとおっしゃっていました。私の場合、八坂は完全に元牧師か牧師の息子かと思ったんです。私は神学部にいたとき、周りにたくさん牧師の子どもがいたんですけど、彼らは章江タイプか八坂タイプに分かれるなあと感じていたんです。家でものすごく幸せにいい子に育つか、一方でものすごく深く傷ついている子もいる。牧師でありながら、家庭では権威的だったり暴力をふるう親も多いらしいんです。普通のDVよりシンドイのは「お前は神様に罪を犯している!」と言われる。肉体的に加えて、一般よりもさらに精神的にとても深い傷を負った子がいる。八坂はそういうすごく厳しく教育された、牧師の息子ではないかと思ったんです。
なるほど・・・。その本を書いた方は、父親の教育がすごく厳しくて「うそをつくな。仲間を裏切るな」とモラルを徹底的に叩き込まれた。だから大人になってもそのルールから逃れられない。だから人を殺めてしまったと書いていました。そこは、宗教が持ちかねない暴力性と通じているんでしょうね。知り合いの朝日新聞の記者の方から「なんでこの映画は、こんなに連合赤軍のモチーフが出てくるんですか?」と言われたんです。八坂の持つ身勝手な自分だけの正義が暴走する、また現代のSNS社会にもそういう身勝手な正義があふれていてそれを思い出す。家族が並んでいる写真も、連合赤軍を思い出したと言われました。
――それはびっくりですね。言われて初めて気付きました。牧師じゃなくて連合赤軍の映画だったんですね・・・。本当に見た方が鏡のように、自分の興味や関心を映し出してるんですね(笑)。
映画作りとは、見た人が星座を描くための“点(星)を打つ”こと
全く意識してないんですけどね。唯一意識したのは、章江の会話で「総括」って言葉が出てくるところぐらいで(笑)。一応裏設定として、孝司の母親は学生運動にのめり込んでいたという設定なんですが。
それを聞いて面白いなあ、この映画を作ってよかったなあと思いました(笑)。私は、見た人が映画を「鏡」として100人が100人それぞれの解釈ができるような映画を作りたいと思っているんです。僕にとっての映画作りは「点を打つ作業」ということだと思ってるんです。星座は夜空を見る人がかってに星の間に線を引いて見ているわけです。星座を結びつけていくのは見る人の仕事なんです。だから映画を作るということは、見る人ができる限り星座を発見できるように、点を配置していくことだと思うんです。
カメラは世界を切り取る。でも、人間の内面は映らない。それは、僕たちが生きている実感に近いと思うんです。例えば、ある人が本当に悲しんでいるか分からない。小説では内面描写でできますけど、映画は見ている人にそれを委ねることができる。“委ねる”ことが、映画のカタルシスや共感よりも大事なのではないかと思っています。そこは、意識的に徹底的に一番大事にしていることです。(続きはこちら>>)