宗教改革500周年を来年に控え、ローマ教皇フランシスコは10月末、スウェーデンでルーテル教会の指導者らと礼拝を共にした。カトリックとルーテルの両教会は、宗教改革へと導いた信仰義認という基本的教義に関して、まずは同意することを決定した。宗教改革は効果的に終わったと言う人もいるが、2つの理由でいまだに決着がついていないと冷静に指摘する人もいる。ルーテル教会は女性聖職者問題、人間の性的指向の問題に関してはリベラルな道をたどっており、一方でカトリック教会は、とりわけマリア崇敬や聖体拝領に関する見解に関して、あくまでもカトリック本来の立場に立っている。両者の一致が直ちに見いだされるとは思われない。
プロテスタントの福音派(福音主義)は、この宗教改革の後継者である。ドイツのルーテル教会は福音主義教会とも呼ばれるが、一般に福音派というのはルーテル教会ではない。福音派とカトリック教会は、互いにどのような関係なのであろうか。両者の関係は長い間、敵意と相互無理解がその特徴となっていた。
カナダ・カトリック司教協議会の新しい文書によると、カトリック側はこのような関係を変えたいと願っている。「Our Evangelical Neighbours – A Catholic Reflection on Evangelical Christianity(福音派の隣人たち~福音派キリスト教会に関するカトリック教会の見解~)」は、福音派の諸教会に対し、カトリックの視点で自らを見ることを提案している。この文書は、各陣営の6人の学者が、これまで6年にわたって続けてきた、カトリック教会とカナダ福音同盟(EFC)の福音派教会との対話で構成されている。EFCのブルース・クレメンガー会長は、この文書について「福音派の信仰と実践の概要を明確に提示し」「カナダの多くの福音派教会の姿が各ページによく表されている」と絶賛している。
何年にもわたって両者が互いに相手を攻撃してきたことを考えると、この文書が出たことは顕著な業績である。この文書は、カナダにとどまらず、広く読まれるべきであり、福音派とカトリック両者の相互理解に寄与すること大である。
この文書では、カトリックの信仰を疑う福音派によって、カトリック側は傷ついている状況にあることを認めている。しかし、福音派に対しては寛大である。福音派が持っている心地よい賛美歌、信徒同士の温かい交わり、そして熱い信仰心を評価している。また特に、昔からのカトリック教国である南米を含め、福音派の成長が全世界で著しいことも伝えている。
歴史的運動についても簡潔かつ正確に書かれている。清教徒(ピューリタン)革命とカルヴァン主義から始まり、北米のリバイバル、根本主義というように、福音派そのものを記載するというより、「宗教的遺産を一つ一つ」記載している。根本主義については、万物の起源や宇宙に関わる科学的説明を拒否し、終末の時代にとらわれ過ぎているとしているが、処女降誕や復活といった基本的な教義については称賛している。
この文書は、「カトリックも福音派も難なくニカイア信条を唱えられる」ということで、両者が教義的に正統であることを強調している。しかし、信仰による義認、十字架と伝道中心主義といった福音派の本質的部分について述べた上で、福音派が教派的忠誠心に欠けることを指摘している。
「福音主義はかなり魅力的だ」と述べ、特に聖書に対する誠実な取り組み、キリストとの個人的な関係、そして道徳的水準の高さを挙げている。しかし、「福音主義の信仰と実践に関しては幾つか懸念がある。聖書の記事をあまりにも文字通りに受け止め過ぎるところである。科学の合理的な発見とキリスト教信仰の主張するところが矛盾するように見えるときや、世界の終わりが過剰に強調されてしまうような時に、カトリック側としてはやや首をかしげたくなる」と書かれている。
さらに、「時間的・空間的に拡大したことにより、キリスト教会がこれまでにしてきたこと」と切り離して聖書を理解する福音派の傾向に、カトリック側としては違和感を覚えているという。こうなると、両者の溝が広がり、「協調していくことに対して、それを無視したり反対したりして、カトリックとはうまくやっていけなくなる」としている。
福音派がカトリックをどう考えるかについて、霊的な事柄について語り合う共通の言語を見いだす必要を、この文書は強調している(「救われていますか?」はカトリック信徒に聞くには良い質問ではない。「あなたとイエス様との関係について話してください」が良いかもしれない)。
カトリックへの制度的不信感、教皇権への拒絶反応に加えて、聖人に対する祈り、告解、マリア崇敬のようなカトリックの慣習についての福音派の懸念にも言及しており、このような問題を話し合うのは、両者のどちらにとっても難しいことを認めている。「カトリックと福音派がこのような関係を築くことに、それぞれの陣営内では、嫌悪感を覚える人々もいる。『福音派とカトリックが共に』の初期段階で、福音派の参加者の中にはカトリックとの協力を非難され、個人的攻撃を受け、取り組んでいた宣教活動に対する重要な資金を失ったという人も少数だがいる」と書かれている。
福音派の諸教会とカトリック教会は、この文書を読むべきであろう。両者はこれまでずっと、神学という枠の中で両極に存在していた。しかし、両極は変化している。少なくとも幾つかの神学は、それまでとは異なった視点で研究されている。両者がもはや互いに敵ではない。敵は、教派が何であれ、キリスト教に対する無関心と敵意、そして、深刻な文明社会の価値の空洞化なのである。全てのことについて合意しているふりはできないし、すべきではない。しかし、昔取った武器で、かつての戦いを再燃させるなどという悠長な歩みに身を委ねるべきではないのだ。
文書の最後には、次のように書かれている。「実のある対話や批判をするために、お互いを兄弟姉妹として認め、真摯(しんし)に真理を追究していくキリスト者同志の個人的関係に根差していなければならない」