私たちが質の高い奉仕をするには、その中に何かしら興奮する感覚を見いだせるかどうかが影響していることは明白だ。家族、社会、教会の人々、同僚、上司、顧客、そして究極的には神に奉仕する場合に発揮される能力と熱意には、私たちを動かす情熱やエネルギーが直接影響を及ぼしているのである。
義務や強制から行う奉仕は疲れてしまうこともあるし、誰もそれを喜んではくれない。確かにそのような奉仕はする必要がない。箴言11章25節には、「気前のよい人は自分も太り、他を潤す人は自分も潤う」とある。
奉仕は常に興奮感を持ってなされるものであり、情熱に動かされてなされるものだ。
神や他の人々に対して奉仕をするときに、そのような情熱や高揚感を失ってしまった場合、次の4つのことに留意することが肝要だ。
1. 感情はいつも同じ状態ではないことを理解する
人の感情というのは、時に扱いにくいものだ。しかし、自分がネガティブな気持ちの真っただ中にいるときでさえ、情熱的になれることを知っているだろうか。かつて預言者エレミヤが、「主の名を口にすまい / もうその名によって語るまい、と思っても / 主の言葉は、わたしの心の中 / 骨の中に閉じ込められて / 火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして / わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(エレミヤ20:9)と言ったときに、彼が持っていた感情である。
ここには、神の試練によってうろたえるエレミヤがいる。しかし、それでもなお、神の真理を語ろうとする、燃えるような情熱を持っているのだ。
2. 時を待つ
人生は、いつも良い状況にあるわけではない。乾燥した季節もあれば、豊潤な季節もある。そのような季節の中でできる最善は、好機が訪れるのを待つということ、さらに重要なのは、神の介入を待つことである。私たちが飢饉(ききん)を耐え忍んでいれば、神はやって来て雨を降らせ、私たちの魂に新鮮な水を注いでくれる。
忍耐は奉仕において非常に大事なことだ。乾燥した季節を経験してこそ、そのような状態になった重要な理由を知ることになる。多くの場合、しようとすることに最大限の情熱と興奮を見いだせれば、自分の心や目的に対して最も疑いを持ってしまうつらい時にも、勇敢に立ち向かっていけるのだ。
3. 季節の変わり目を考慮する
乾燥している時期は、しばしば新しい季節への変わり目である。新しい聖職者としての職務、新しい仕事、新しい隣人、人々に仕える新しい方法に移行する時だ。しかし、新しい人間関係の中に飛び込んでいくことは、季節の変わり目には含まれない。人間関係は、常に必要とされることだ。
4. 神と共に時を過ごす
しなければならないことに対して意欲が失われたときに、最も重要なことは、最初の愛に戻ることである。神の御前にいることほど、元気づけられることはない。イエスがマタイによる福音書11章28節で述べている通りである。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
神がおられるから、私たちは活力が得られ、心が満たされる。そして、キリストからいただく同じ愛で、他の人たちの心を満たし続けられるのである。全ては神と私たちとの関係からあふれ出てくる。私たちの心に神がいなくなるとき、他の人々に与える熱意ある奉仕はできなくなってしまう。