多くの人は、赦(ゆる)すことは単純なことだと考えている。しかし、そうではない。私たちは、赦しがどのように働くのかを本当に理解しなければ、自分たちを傷つけた人たちを赦すことに失敗してしまう。それ故に、私たちは赦しとは何なのかを知るべきなのである。
赦しとは何か?
赦しは、違反を忘れ、復讐(ふくしゅう)を果たす権利を放棄する勇敢で、勇気ある行為である。ある人たちにとって、最初の部分(違反を忘れること)はたやすいかもしれないが、第2の部分(復讐を果たす権利を放棄すること)は困難である。なぜなら、そこで私たちは、自分たちに対して徹底して行われた悪事を究極的に手放すことになるからである。
もしあなたがこれまでに傷ついたことがあり、誰かから不正なことをされて不快な思いになったことがあるなら、あなたは自分が赦した後にさえ、復讐を果たそうとする衝動を感じたことがあるかもしれない。このしつこく付きまとう「恨みを晴らそうとする」感情は、たいてい私たちの赦しを無効にし、空しくする。不完全な赦しは、まだ完全には赦していないことなのだと肝に銘じる必要がある。
あなたは十分に赦す方法を学びたいだろうか? 赦すことに成功する鍵を1つだけ分かち合わせてほしい。それは神にあなたを癒やしてもらうことである。
神に私たちを癒やしていただくこと
神は御自分の御言葉の中で、私たちが復讐を願うべきではないと仰せになった。その代わりに、私たちは、神が報復してくださるので、神に報復する余地を残さなければならない(ローマ12:19〜21)。
この約束は、私たちが癒やされ、前に進むことを助けてくれるだろう。
しかし、問題は私たちがこの聖書の御言葉にいつでも従うわけではないということである。
私たちは、実際に復讐を行動に移すことを思いとどまらせることができたとしても、心と思いの中で傷つけた者たち憎み、「人殺し」をしている(ヨハネ一3:15)。私たちは、とにかく神は正義を行うと約束されたと考えて、自分たちを傷つけた者たちの破滅する様を想像し、彼らが消えて無くなってしまうことを祈ることができるのではないか?
しかし実際、それは間違いである。もし、私たちが赦したと言うならば、もはや復讐を願う思いのいかなる痕跡も残されているべきではないのだ。ここまで到達するのは容易ではないが、赦しは完全であるべきなので、私たちは復讐心を根こそぎにする必要がある。
こう考えてみてほしい。もし、神が私たちの生まれたときから全ての悪事の記録を付けていたなら、私たちは生きることができるだろうか? もし神が、私たち全ての罪人に復讐を果たすことを望まれるなら、私たちにはこの世においても、永遠においても、生きる見込みはないだろう(詩編130:3〜4)。
しかし、神は私たちを罰するために御自分の拳を地にたたき付ける代わりに、御自身の怒りを御自分の独り子イエス・キリストの上に注がれた。キリストは神の怒りを受けなければならないような悪事を働いたことは決してなかった。しかし、キリストは私たちが赦されるために、私たちの罪に対する神の十分な怒りを受けたのである(ローマ3:24〜26、ヨハネ一2:2、イザヤ53)。
そして、私たちがキリストを通して赦された時点で、神はもはや私たちの罪を思い出さないでくださる(ヘブライ8:12、イザヤ43:25)。このことをよく考えてみてください!
神の赦しにあなたが赦すのを助けてもらうこと
あなたは徹底的に傷つけられたのかもしれない。しかし、キリストは私たちが味わうどんな傷よりもはるかに大きな傷を受けたのだ。しかしそれにもかかわらず、キリストは私たちを愛することを選ばれ、私たちが受けるべき刑罰を受け入れてくださった。あなたが真に赦せるように、キリストの恵みと憐(あわ)れみが力を与えられるように(マタイ10:8)。