言葉と聖書には、密接な関係があります。ここで言う言葉は「聖書は神の言葉」と言うときの言葉ではなく、私たちが日々人々と交わす言葉、あるいは、神に祈るときの言葉のことです。私は人生の大半を英語指導や教材開発などに費やしてきました。ですから、言葉に関する話題には非常に興味があります。
でも、長い間意味がよく分からなかった聖句がありました。それはヨハネ1:1~3 で、「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と書かれています。
「ことば」は、ギリシャ語で logos となっていますが、なぜここで「御子」という表現ではなく、logos という単語が使われているのかが分かりませんでした。いろいろな説があるようですが、ある時、この聖句が大きな意味を持つことに気付かされました。また、その気付きがその後の「言葉のメカニズム」「語学習得メカニズム」「通訳メカニズム」解明の土台になりました。
私は高校1年の時から通訳を始めたのですが、大学生の時、アメリカ人教授の物理の授業を2年間通訳しながら受講しました。メモを取ることはできませんでしたが、ある時、大きな発見をしました。それは通訳をする前に通訳が終わっていたということです。教授の英語が「意味」として私の脳に注がれるので、瞬時にそれを日本語で言い直していたにすぎないことに気付きました。すなわち、英語から日本語に訳すというプロセスが存在しなかったのです。
その時、もう1つのことに気付きました。それは英語という「音声」とその音声がもたらす「意味」の2つから言葉が成り立っていて、記憶に残るのは「音声」ではなく「意味」だということです。さらに気付いたのは、「意味」は「音声」と共に耳から入ってくるのではなく、脳のある部分が音声を意味に変換するということです。そして音声そのものは意味ではなく、意味を伝えるための道具、すなわち、記号であるということです。
そこで私は、次の結論にたどり着きました。「言葉は脳に内在する中枢言語と、音声として出たり入ったりする外的言語の2大要素から成り立っている」ということです。人は誕生直後から体が成長していきますが、中枢言語も脳内で成長していきます。中枢言語には多くのものが含まれています。物事の認識、因果関係の理解、論理的な思考力、価値判断、善悪の判断、思い、感情、意志、美の感覚、推測、記憶、回顧など数え切れないほどです。
それらは全世界の全ての人が例外なく共通要素として持つものです。それがなければ人間は人間ではなくなり、意思疎通も不可能になります。でも、人間対人間の意思疎通のために、その伝達手段が必要で、それが日本語とか英語とか中国語と呼んでいる外的言語、すなわち、記号としての言語です。
話は少し戻りますが、人類共通の中枢言語の概念が明確になったとき、私の頭の中で一気に3つの聖句がつながりました。ヨハネ1:1~3と創世記1:1、そして創世記1:27です。天地創造の前から神は logos でした。私はそれを "Theo-logos” と呼ぶことにしました。
そして logos なる神により天地の全てのものが創造されました(創世記1:1)。さらに人間だけが「神に似せて」造られたのです(創世記1:27)。神の何に似せて造られたのでしょうか? ここからは私独自の解釈になりますが、”Theo-logos” のコピーとしての “human-logos” を持つものとして人は造られました。この ”human-logos” が中枢言語ということになります。
そうすると、言葉に関してどんな話をしても、その背景に、あるいは発想の土台に「Theo-logos ⇒ 創造 ⇒ Human-logos」があるということになります。
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