人と人の意思疎通は、human-logos(中枢言語)と音声記号(外的言語)がそろったときに可能になりますが、良い意味でも悪い意味でも、外的言語が共有されたときに、その社会に大きな力が働きます。
ここでいう外的言語とは、私たちが普段「言語」と呼んでいる日本語、英語、中国語という音声記号のグループ分けされたものを指します。一方、同じ社会の中で複数の外的言語が使われていると、力を合わせるのが難しくなります。
それで今現在、世界の多くのそのような国々では、英語を公用語と定め、学校教育も英語で行われています。またある国が他国を侵略し、植民地化するとき、ほとんどの場合、自国の言葉を強要したり、公用語にしたりします。日本も以前、朝鮮半島や台湾などで同じことをしました。
言葉が共有され、リーダーの力が増すと、進む方向は2つしかありません。堕落か世界平和のどちらかですが、罪性を持つ人間は、神に背き堕落していく可能性の方がはるかに大きくなります。
創世記11章1~9節によると、人々が自分たちを神の地位に引き上げようとバベルの塔を築き始めたとき、外的言語は1つしかなかったようです。それで意思統一が図りやすく、堕落のスピードも上がっていきました。
その動きを食い止める最も効果的な方法は、言葉の分化と民の分散でした。創世記11章のバベルの記事では、「互いに言葉が通じなくなったので、民が全地に分散した」のか、あるいは「民が全地に散り分断した結果、言葉が通じなくなった」のかは明記されていませんが、いずれにせよ、外的言語が多様化したことにより、意思疎通が難しくなり、バベルの塔の建設は頓挫しました。
今世界には数千の言語があり、方言も含めると何万という数になりますが、この多様化はバベルの出来事の結果ということもできます。あの時、バベルの塔の建設計画がなかったとしたら、もしかして今でも世界には1つの外的言語しかなく、外国語を学ぶ必要もなかったかもしれません。
でも、バベル事件がなかったとしても、罪性を持つ人類はいつか同じことをたくらみ、同じ結果になっていたと思います。
ところで、使徒行伝2章でのペンテコステの出来事は、バベルの事件とは真逆な奇跡です。聖霊が下ったとき、使徒たちは、「御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」と書かれています。
その時、人々は「私たちがそれぞれ、生まれ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか」と驚き怪しみました。使徒たちは、習得していないはずの外的言語を使って語り始めたのです。
いきなり知らない外国語を話し始めることはあり得ないことですが、ここでは聖霊の介入により、言葉が共有されました。この時の言葉の統一(共有)は、Good News(良きおとずれ、福音)の宣言のためでした。すなわち人類の平和のためでした。
これら歴史上の2つの事件は、「人の罪」と「キリストの死と復活による救い」という2大テーマを象徴するものでした。それらが「言葉」との関連で描かれているのは興味深いことです。
Theo-logosに似せて造られたhuman-logos(中枢言語)と、その伝達手段である音声記号(外的言語)は、やはり人間を人間であらしめる重要要素であると感じます。
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