牧師が日本のゴスペルブームの足を引っ張る(!?)理由とは?
巷(ちまた)ではゴスペル教室やクワイアが次々と生み出され、「童謡をゴスペル風に歌ってみましょう」というコーナーがテレビで放映されるような時代を迎えた。しかし意外なところからこのブームに反対意見が出てきた。それが実は日本のキリスト教会である(!)。「ゴスペルブームはもうすぐ終わる」と教会の牧師たちがささやき始めたのである。その真意は何か?
確かに日本のクリスチャン人口は1パーセント未満である。そうであっても自分たちなりにゴスペルや賛美歌を歌い続けてきたことに対する自負はあった。そこに、ただスタイルや見よう見まねで映画のような雰囲気を味わいたいという「にわかゴスペルフリーク」が現れてきた。
しかも、彼らは歌うことが教会に通っている人以上に好きだったり、音楽を専門的にやっていたことがあったりして、教会でピアノやオルガンを弾いてきた人たちよりも「上手い」人が多かった。
すると教会側に「既得権益」意識が芽生え始める(!)。こんな軽薄なゴスペルブームなど、一過性のもの(であってほしい)と思うようになるのは致し方ないことなのかもしれない。
クリスチャンでなければ本当のゴスペルを歌っているとは言えない!?
やがてこんなことを言い始める者がいる。「やはり歌詞の意味が分からないとゴスペルは歌えない」「クリスチャンでなければ真にゴスペルを歌っているとは言えない」などなど。特に「クリスチャンでなければ」という指摘は、ゴスペルフリークの心を深く抉(えぐ)る結果となった。彼ら自身も「クリスチャンでもない私が・・・」という後ろめたい気持ちを抱いていたからである。
その結果「私はクリスチャンにはならないけど、ゴスペルは好きです」とか「ノンクリスチャンのゴスペルクワイアを結成しました」というような、海外の方からすると違和感を抱かせるようなゴスペルフリークが生まれてきたのである。
とはいえ、90年代以降、教会でもゴスペルが盛んになってきた。その結果、全くタイプの異なる2種類のクワイアがキリスト教会に生まれることとなった。
1つは「どんな方も一緒に歌いましょう!」と訴え、福音宣教の一環としてゴスペル教室を開催するパターン。教会が主催して行うゴスペル教室であれば、巷の音楽教室よりは深いものを提供できるだろうし、教会へ来ることへの抵抗感をなくすことができる、と考えたのである。
するとクワイアメンバーは、クリスチャンもそうでない方(未信者)も入り混じる。さながら教会主催のカルチャーセンターである。現在、こちらのパターンの方が多いように思われるのだが、いかがだろうか。
一方で、先ほどの既得権益を守る意味合いもあるのだろうが、クワイアに入れる条件を課すパターンもある。つまり「洗礼を受けて教会員となった者がメンバーとなれる」とか、「献金や奉仕などを欠かさず行うこと」など、「クリスチャンが歌ってこそゴスペル」というスタンスである。しかし、決して排他的に敷居を高くしているのではなく、観客としてコンサートには来てもらいたいし、その流れで教会にも来てもらいたいと願っていることが多い。
この二極間にさまざまなクワイアがグラデーショナルに存在しているのが、日本のゴスペルクワイアである。
明治期に西洋文化と共に入ってきたキリスト教であるが、日本人は巧みにその「文化」のみを取り入れ、文化の源であった「キリスト教」を排除した。いわゆる「換骨奪胎(かんこつだったい)」を成し遂げた経験がある。その二の舞いになるのか?という恐れからか、教会はこのようなゴスペル現象に対して、かなり警戒心を抱いたことは事実である。
ゴスペルブームに福音宣教の切り口がある!
しかし、ここに“福音宣教の切り口”があるのではないか。筆者はそう思う。まず、この日本での「天ラブ2」現象こそ「日本的なゴスペルの受け入れ方」なのだろうと思う。
キリスト教的な素養がほとんど定着していない「宣教地日本」という前提に立つなら、1のように従来のキリスト教世界(修道院)に世俗要素(殺人現場を見たショーガール)を入れ込んで起こる化学反応を楽しむコメディーでは、その宗教的面白みがほとんど伝わらない。しかし2は、日本では「体感できる良き知らせ」として受け止めることが可能となる。
ゴスペル音楽のスタイル、雰囲気、そしてゴスペルを歌うことを通して、人間が「少し成長できる」というメッセージは、見る者の心を静かに揺り動かすことになる。実はこのプロセスこそ、聖書が語る「福音」の浸透過程と軌を一にしている。
「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(黙示録3:20)
たかが「映画」だからこそ、「娯楽エンターテイメント」だからこそ、あえて「スタイル」「雰囲気」を大切にしていきたいと願う。より「天ラブ2」に近い体験、疑似体験ができるようにゴスペルクワイアを方向づけていくのである。「戸口に立ってたたく」その音に気が付いて、「戸を開ける者」が現れることを願うのである。
「天ラブ2」を見てゴスペルに興味を持ち、教会のゴスペルに通うようになってさらにゴスペルの深い意味を知り、結果クリスチャンとなった、という方の話はよく耳にする。私も今までの関わりでそういう方の名前を挙げると、両手でも足りないくらいである。
また関西の有名私立大学では、「天ラブ」の「Joyful-Joyful」をそのままサークル名にして、今なお精力的にゴスペルを歌い続けている。これこそ「福音」が伝えられていく「日本的」な在り方ではないだろうか。
音楽としてのゴスペル(gospel)を聴き、やがてその本質に触れたいと願う者が聖書の語る福音(Gospel)を獲得していく。教理や教義としての福音に直接触れるには距離があっても、音楽を通してこれがなされるとき、抵抗感は軽減する。筆者はこれを「from gospel to Gospel」と表現している。
「西洋の宗教」と見られることの強み
よく「西洋からのキリスト教では、日本に伝わらない」という声を聞く。それは一面真理である。しかし大事な側面を見落としていると言わなければならない。日本人は、キリスト教を「西洋の宗教」と強く受け止めているということである。
外国から入ってきた、という歴史的前提は否定し得ない。だからこそキリスト教は、新奇で目新しくて、日本人の日常にインパクトを与えることのできる要素を持っている。大切なのは外からのものであっても、それをどうしたら日本人に受け入れやすく提示できるか、そこに知恵を絞ることである。ここにこそ、日本のオリジナリティーがある。その好例が「天ラブ2」だと筆者は思う。
「天ラブ2」は、自分を変えたいと願った者たちにとって原初体験であり、ケーススタディーであり、もしかしたら「聖典」「バイブル」となっているのかもしれない。日本人が「戸を開けたい」と思わせる魅力が満載なのである。
「from gospel to Gospel」こそ、宣教地日本の効果的な福音宣教の一形態であると筆者は信じている。
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読者の皆さんへ
これは私の牧師としての経験から紡ぎ出された個人的な意見でしかありません。本コラムをお読みになって、皆さんはどう思われたでしょうか。特に実際にゴスペルを歌っている方、指導されている方、またこれを教会活動の一環としておられる牧師先生etc.
皆さんは「from gospel to Gospel」にどんな思いを抱かれたでしょうか?ぜひ感想をお聞かせください。
※ご意見・ご感想は、メール([email protected])でも承っております。お気軽にお問い合わせください。
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