「あっ、犬が吊り上げられてる!」
2015年9月10日、大雨で鬼怒川が決壊したときのことです。茨城県常総市で今にも流されそうな民家の屋根に、柴犬を抱いて救助を待つ夫婦がいました。ようやく飛んできた救援ヘリコブターは、上空でホバーリングしながら犬も一緒に救出します。その光景に日本中の人が目を見張りました。
ところが犬の救出については、その時2通りの意見が出ます。
「ああ良かった。犬も見捨てられずに、一緒に助けてもらっている」と安堵して喜ぶ人たち。一方で死者3人、行方不明者23人と報道される緊迫した災害時でしたから「そんな場合じゃないだろう。犬を助けている暇があったら、一刻も早く他の人命を救え!」と批判する人たちもいました。
両者は全く対極にありながら、しかし、私たちはどちらの意見ももっともだと感じるのです。人命優先は当然です。誰もそのことを否定はしないでしょう。しかしそれにもかかわらず、犬が人と共に救出されている映像は、大きな何かを人々の心に感じさせたのです。
「人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった」(創世記2:20)
聖書によれば、自然界の生き物は人間の管理に委ねられました。しかし、それらは単に管理を委託された対象物としてだけではありませんでした。動物の中から「人にふさわしい助け手」として候補になり得るものがあるのかどうか、オーデションもされたのです。
けれど一頭一頭名前を付けながら検討されましたが、動物は人にふさわしい助け手にはなりませんでした。そう伝えながらも、この御言葉が余韻としていることは「動物は人にふさわしい助け手として候補に挙げられた」ということです。審査では落ちました。落ちましたが、少なくとも人の伴侶候補に挙げられる程度の資質があったのです。
最近はペットではなく、コンパニオンアニマル・伴侶動物と呼ばれるようになりました。2009年の全国調査では、犬の飼育世帯率18・3パーセント、猫の飼育世帯率11・2パーセントという統計が出ています。4、5軒に1軒は動物と暮らしている時代です。今や「動物を飼う」のではなく「動物と暮らす」「動物と生きる」時代です。動物から元気をもらう人が非常に多いのです。
日本では特に同居動物を家族視する観念が広がっています。携帯の待ち受け画面に使うのは当たり前、犬の誕生会に知人を招待し、死ねば葬式も出します。高齢で垂れ流し採食不能になっても、半年、1年と介護します。
伴侶動物に対する日本人のこのような対応は、なぜでしょうか。天地創造の初めに、神が動物の中から人の助け手を検討させたときの含みと、どこか関係性があるのでしょうか。
「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた」(創世記8:1)
「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(ヨナ4:11)
救済史において、動物はあくまでも脇役や端役にすぎないでしょうが、聖書は神がこの動物たちに心を留めておられることを明言していたのです。
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