私の亡き夫、三上忍の母である三上七五三子(しめこ)は、2015(平成27)年10月31日に天に召されました。長年持病の糖尿病がありましたが、97歳まで守られて、横浜市の自宅で同居の長女恵夫妻、そして市内に住む三女信子夫妻による手厚い介護を受けながら、自然な看取りのうちに穏やかに最期を迎えました。
2015年11月3日に行われた目黒カベナント教会での葬儀で、私も親族の1人として義母の思い出、その信仰のルーツ、歩みを語らせていただきました。今、ここでさらに多くの方々に、名もない1人の信徒である義母について、またその歩みの背景についてお伝えする機会が与えられたことを心から感謝いたします。
以下、義母七五三子のことを、「主に在る姉妹」として「七五三子姉」、義父四郎のことを、「主に在る兄弟」として「四郎兄」と呼ばせていただきます。
はじめに
私たち夫婦は1971(昭和46)年3月に結婚し、翌年の12月から4年余り、夫の両親である四郎、七五三子夫妻、妹3人と同居しました。その頃の七五三子姉は、10年間の、聖契神学校での一家住み込みでの食事作りを退職し、新築した家で、愛する家族のために、料理や一つ一つの家事に忠実に心を込めていました。
七五三子姉は4人の子ども、8人の孫、7人のひ孫や親戚の方々へ、生涯にわたり深い愛を表し続けました。また、周囲の人々にも誠意をもって接する人でした。ある時、四郎兄が私にこんなことを話してくれました。「貴子さん、七五三子は町で出会った物乞いする人と、まるで友達のようにしゃべるんですよ」。このように、誰に対しても分け隔てなく接する人でした。
聖書に次のような言葉があります。
「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイの福音書19:19、新改訳)
「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ人への手紙2:3b、新改訳)
七五三子姉に接して感じたのは、このような聖書の言葉が、若いときから自然に蓄えられ、身に付いていたということです。
長野県諏訪での出生・少女時代
三上七五三子姉(旧姓:林七五三子)は、1918(大正7)年5月3日(名前の由来は生年月日にあります)に、長野県諏訪郡豊田村(現在の諏訪市豊田)の海苔問屋、林家に三男三女の末っ子として生まれました。8歳で母親のひさのさん、12歳で父親の幸三郎さんを亡くしましたが、兄、姉たちの愛によって、明るく元気に育ちました。
当時、大正から昭和の初期にかけて、ホーリネス教団のリバイバル(信仰覚醒運動)が起こり、全国的に、また、ブラジル、満州、台湾など海外にも熱い伝道が行われました。諏訪地方でも多くの人々が信仰に導かれました。
林家でも、一緒に住んでいた伯父(父の長兄久太郎)夫婦の養女アサさん、長兄彦太郎さん、三兄正二さんが上諏訪ホーリネス教会で救われ、クリスチャンになりました。アサさんは、父の次兄の娘で従姉ですが、七五三子姉は一番上の姉として慕っていました。
1930(昭和5)年に彦太郎さんと結婚したはつのさんは北安曇郡小谷村中土出身で、諏訪の片倉製糸の女工として働く中、上諏訪ホーリネス教会の伝道により信仰を持ちました。神学校に行くつもりでしたが、カリエスで伏せながら自宅で子どもたちに伝道していた山田はまのさんの祈りに導かれて、病人のいる林家に献身の思いをもって嫁いだということです。
その頃、林家では、七五三子姉の父、伯父夫婦と次々に病を得て、亡くなっていったのでした。1934(昭和9)年に彦太郎さんも天に召された後、はつのさんは弟の正二さんと再婚して林家を支えました。母、父、伯父夫婦、兄、後には長姉のけいさんが亡くなるという状況にありましたが、七五三子姉は、兄、姉たち、兄嫁の祈りと支えにより、信仰を育まれていきました。
東京日本橋での受洗・シンガポールへの招き
1935(昭和10)年3月に下諏訪実科高等女学校を卒業後、林家が海苔問屋の拠点としていた東京日本橋に滞在していた時期がありました。36年、18歳の時に、シンガポールでテイラー(洋服仕立て業)を開業していた、アサさんと夫の小林金之助さんからの招きがあり、シンガポールに渡ることになりました。
渡航前に、日本橋聖教会において蔦田二雄(つただ・つぎお)牧師から受洗しました。蔦田師は、後にインマヌエル総合伝道団を創設した方です。シンガポールでは、金之助さん夫妻のお子さんたちの面倒を見て、店や家事を手伝い、2年余りを過ごしました。
小林金之助さんの自伝によりますと、蔦田顕理(けんり)氏(蔦田二雄牧師の父、通称蔦田パパ)がシンガポールで歯科医院を開いていて、アサさんは結婚前にそこで助手をしていました。顕理氏とアサさんは、1928(昭和3)年にアサさんの母教会である上諏訪ホーリネス教会から高橋俊三牧師を招き、OMS新嘉坡(シンガポール)教会を設立しました。
金之助さんは、テイラーの修行中に神田駿河台のホーリネス教会で救われ、20歳の時に高橋師の海外伝道同労者としてシンガポールに渡り、後にアサさんとの結婚に導かれたのでした。
七五三子姉はシンガポール時代について楽しそうによく話してくれました。シンガポールの食事や文化、信仰深い小林夫妻との生活、教会の交わりなどを通して、若い七五三子姉が大きな影響を与えられた時期でした。
三上四郎兄との結婚、そして実家での疎開生活
1938(昭和13)年12月に戦雲のため小林家と共に帰国し、41年に小林夫妻と目黒聖教会の吉崎典信(つねのぶ)・寿々牧師夫妻の紹介により、三上四郎兄と結婚しました。吉崎寿々さんは四郎兄の姉で、麻布ホーリネス教会の路傍伝道で導かれ、救われました。三上家では、次兄の武二郎さんも信仰に導かれていました。その後、父新次郎さんも信仰に導かれ、父の勧めにより四男の四郎さんも受洗に至りました。
三上家は麻布十番で薪炭商を営み、五代目新次郎さんは一代で財を成し、たくさんの家作(貸し家)、寄席、芝居小屋などを持っていました。救われてからは、早天祈祷会や集会に熱心に出席し、自宅の隣の土地を教会に献(ささ)げ、新会堂が建てられました。
四郎、七五三子夫婦は教会の隣の家に住み、信仰でつながる三上家、吉崎家、秋山友一郎・栄子牧師夫妻、栄子師の父で吉崎師の叔父であり養父である、伝道巡回者の秋山由五郎師らとの交わりの中で、新婚生活を過ごしました。
四郎兄は大変優しく楽しい性格の人でした。勤めから帰宅すると、入り口から2階にいる七五三子姉を大きな声で呼ぶほほ笑ましい光景を、吉崎家の長女、安喜子さんは覚えているそうです。とてもいいご夫婦だったと私に話してくださいました。
間もなく四郎兄が出征し、1942(昭和17)年に長男忍さんが生まれ、43年には母子2人で七五三子姉の実家、林家に疎開しました。続いて、45年には小林アサ一家が実家を頼って疎開しました。
林家には、北京から引き揚げた成沢文寿牧師、梅ヶ丘教会植松英雄牧師ご一家を含む5世帯が疎開していました。疎開を受け入れてくださった林家の三男でその当時小学生だった通弘さんによると、ホーリネス教会は分裂(1934年)と弾圧(1942年)の茨の道をたどり、さらに戦後の混乱の中、復興のための諸集会が林家で持たれ、兄弟姉妹の熱い祈りと献身的な愛の奉仕に包まれていたそうです。また、そこには、幾世帯もの食べ物の心配に苦心したはつのさんの愛の働きがありました。
神奈川県平塚から東京目黒へ
1946(昭和21)年に四郎兄が帰国し、47年に長女恵さんが生まれた後、神奈川県平塚市に既に住んでいた三上武二郎さんの招きにより、平塚に移り住みました。49年に次女百合子さん、52年に三女信子さんが生まれました。
父新次郎さん一家も疎開先の宮城県から平塚に移り、皆同じ敷地内に住むこととなりました。その頃のことを、七五三子姉が金婚式の時に自分でワープロで打った文章が信子さんのもとに残っていましたので、一部省略して紹介します。
「・・・終戦後は、何処の家族でも、非常に大変な所を通りました。私達が長い人生の中で先ず、神様を信じて居ったことが、どんなに励ましであり恵みであったか分かりません。昭和22(1947)年11月、平塚に引越してきました。兄の家で家庭集会を開き、そこへ堀川先生をお招きしました。集会には兄夫婦と私達夫婦だけでした。2、3年たった頃、近所の杉岡さんの家族も加わるように成りました。その頃世の中はますますひどい食糧難で、大変な時代でした。子供が成長するにともない私共も大変になり・・・私は習い覚えた洋裁や和裁をしたり、又は内職をしたりしました。私どもの家庭事情がわかったのか、堀川先生が、神学校に来て食事作りをしないかと奨められました。家庭の食事しか作ったことのない私です。全く自信がありません。真剣に祈りました。1ヶ月位たってやっと決心しました。急に大勢の食事作りは、私に取って大変でした。丁度平塚に10年過ごし、いよいよ東京での生活が始まりました。初めの3ヶ月位は夢のようでした。学校の皆さんは、とても良い方々でした。本当に励まされました。神様は喜びを与えて下さいますが、又悲しみも苦しみも、経験をも祈り与え、事に依って、逃れるべき道を開いて下さると云う事を知る事が出来ました。・・・」
七五三子姉が神様に信頼する信仰によって歩んでいたことがよく分かります。なお、この三上武二郎家での家庭集会が、現在の平塚聖契キリスト教会の設立につながりました。戦前からの信者、牧師の信仰と、宣教のスピリットに燃え来日していた米国カベナント教会の宣教師たちの思いが一致して、伝道が進められたのでした。
このように導かれ、1958(昭和33)年1月から一家で聖契神学校に住むことになりました。神学生の皆さんから「おかあちゃん」と呼ばれ、神学校の朝昼晩の食事作りと自分の家の家事との両立で大変でしたが、楽しい時だったと聞いています。当時の神学校校長のリグマーク先生ご一家、先生方、神学生たちとの交流を、家族の皆が懐かしく語っていたものです。
日曜日に通うようになった目黒カベナント教会では、平塚時代から家族に関わってくださった石田和男神学生が牧師となっていて、牧師一家、教会の兄弟姉妹とは良き信仰の交わりを与えられました。子どもたちも皆信仰が与えられ、忍さんは平塚で、恵さん、百合子さん、信子さんは目黒カベナント教会で受洗しました。
七五三子姉と私の思い出
私は21歳の時に群馬県の渋川カベナント教会で受洗しましたが、大学が東京でしたので、目黒カベナント教会に通っていました。春夏の赤城バイブルキャンプでは度々台所の奉仕をしていました。
七五三子姉の神学校での台所仕事の手順や料理のレシピは、台所で働く神学生に伝授され、赤城バイブルキャンプに受け継がれていました。忍さんとの結婚が決まって三上家に加わり、七五三子姉の手料理をいただくようになりました。
その多くは、私にとってすでになじみのあるもので、神様のお導きを感じました。春雨サラダ、スウェーデン風ミートボール、豚肉の野菜巻きなど、七五三子姉のおいしいお料理を懐かしく思い出します。
私と七五三子姉の心のつながりで忘れられない出来事が二つあります。一つは、夫が健在の頃、私たち夫婦の千葉の家に七五三子姉が滞在していた際のことです。何かしみじみと二人で語り合うときがありました。
七五三子姉は、「私は人の心が分からない人間なので、貴子さんにイヤな思いをさせたと思うわ」と言いました。私の口からはとっさに「私こそ、今までお母さんにイヤな思いをさせるようなことを言ってごめんなさい」という言葉が出ました。
私は若いときから自分の思いが先に立って悲しませるようなことを言っていたのではないか、謝らなければ、という思いがあったのですが、お母さんの方から先に言われてしまいました。その時から、それまでにも増して心が通じ合う関係になった気がします。
もう一つは、2006(平成18)年に夫が中国天津駐在中に心筋梗塞のため倒れ、2カ月後に北京の病院で64歳で天に召された後、しばらくして私の家に滞在してもらったときのことです。
七五三子姉は、四郎兄が82歳で天に召され、その2年後に次女百合子さんが52歳で天に召されたときも、また忍さんが召された直後も、人前では涙を見せませんでした。でも、天国でイエス様と共にいるという確信を持っていても、愛する者との地上での別れは、大きな悲しみです。
私と七五三子姉は、何も言わずに手を取り合って涙しました。その時に、二人の心が本当に一つになっていると感じました。嫁と姑の関係はいつの世でも難しいと思いますが、同じイエス様を信じて、一つにつながることができるということは、最大の幸せです。
おわりに
今回寄稿するに当たって、七五三子姉、四郎兄の親戚の方々や、友人にお話を伺い、資料を提供していただきました。深く感謝いたします。また、お話を伺った皆様のご家庭、ご家族に、神様の愛が確かに伝えられていることを知りました。創世記12章で神様がアブラハムを祝福してくださったように、今はもうすでに天に召されている、先に信じた方々が、祝福の基となっていると思わずにはいられません。
林家では、1977(昭和52)年から1996(平成8)年にかけて、「いとこ会」が度々各地で開かれました。林家、小林家、七五三子姉の次兄の綾二さんが養子となった新村家、次姉の靖子さんが嫁いだ長岡家、三上家の総勢数十人が一堂に会し、交流を深め、楽しい時を過ごしました。これも大きな神様の祝福です。
千葉のわが家の近くに三上家のお墓があり、墓石には、四郎兄の愛唱聖句「主は私の羊飼い」(詩篇23:1)が刻まれています。元旦や事あるごとに、孫、ひ孫を含む親戚一同が墓前に集い、祈りをささげ、平塚時代からの三上家の愛唱歌「きょうまでまもられ」(聖歌292)を歌います。七五三子姉の最後の日々、食前や祈りの時に共に歌った賛美でもあります。
きょうまでまもられ きたりしわがみ / つゆだにうれえじ ゆくすえなどは
いかなるおりにも あいなるかみは / すべてのことをば よきにしたまわん
(凡[すべ]てのこと相働きて益となるを我らは知る ロマ8:28、文語訳)
四郎兄、七五三子姉を通して、神様の愛が私たちに伝えられています。
七五三子姉を神の家族の中に置いてくださり導いてくださった、そして、今私たちをも神の家族として導いてくださっている愛なる神様に、心より感謝をささげます。
(文・三上貴子)