D インド
インドはムガール帝国によって治められていた。18世紀の中ごろにイギリスで東インド会社が設立された。この会社はインドでの事業についての免許を、イギリス政府から受けてインド進出を開始した。(インド政府ではない。イギリス政府が出した)
これは民間会社であったが、現地の兵士による軍隊を保有し、軍事力によってムガール帝国を倒し、周辺の諸王も征服した。またフランス東インド会社と戦闘して領地を取ったり取られたりし、ついにインド全土の60パーセントを治めるに至った。やがて残りを領有する周辺の諸王も屈伏させ、インド全体を支配するに至り、諸王に跡継ぎがなければ、東インド会社が領地を没収した。こうして出資者は多額の配当を得た。
つまり、英国王が出した免許状によって成立している会社が、他国で国家のごとく戦争し、国家のごとく統治し、国家のごとく裁判をしたのである。こんなことは欧州の中では許されない。だが、アジアでは許される。なぜならアジア人はサブ・ヒューマン(人間よりわずか下の存在)だからである。
19世紀の中ごろにセポイの乱が起き、この反乱はインド全地に波及した。英国はこれの鎮圧に4年かかり、ムガール王家は正式に廃され、東インド会社も解散させられ、会社によるインド支配は終わった。インドは英国領となり、インド省が置かれ、担当の大臣がこの国を治めることになった。
それまでの植民地支配は、主要港を抑え交易を独占し収益を上げるという形で行われた。イギリスはインドの領土の全体を実効支配しようとし、鉄道を敷設したりしたが、インド植民地の経営は、結局はイギリス側の持ち出しに終わったという。
1911(明治44)年のアムリッツアーの虐殺では、英軍が不審者を自由に逮捕、投獄できるという法律を布告し、それを不服として公園に集まった一般のインド人を英軍が射撃、400人ほどが死亡した事件である。このように英国は鉄槌をもってインドを支配した。塩の製造を禁止し、英国政府から塩を買わねばならなくした。ガンジーの塩の行進は、これに抗議するものであった。
それでも英国の支配は、オランダのインドネシア支配よりはましであった。オランダのやり方は本国の窮乏ということがあり、植民地のことなど配慮していては本国が倒れるという状況であったのか、オランダのインドネシア経営は性急で残虐、その場限りであった。その支配の歴史は直視できないものがある。
一つの理由は、インドネシアがインドとは違い無文字社会であったことだ。それでインドネシアは外部にオランダの残虐行為や搾取を訴える手段を持たなかった。オランダ政府はそれをいいことにして、知らぬ顔をした。このような劣等民族を支配するのは、神によって与えられた義務である、とした。
(なお、慶應大の福田和也氏が「文藝春秋」で述べているが、バーミンガムの織物がインドに入ってきたとき、イギリスはインドの織物業を禁止し、それを犯して織機を動かした者は手首を切り落とした。このような施策を通して餓死者が続出し、ベンガルからボンベイに至るまでは行き倒れで死ぬものが続出し、白骨街道と呼ばれたと述べている。出典について少し調べてみたが、ここには省く)
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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後藤牧人(ごとう・まきと)
1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。