第1章 日本の周囲の状況
A インドネシア(その2)
山川出版社の『世界現代史第5巻・東南アジア現代史①インドネシア』によると、次のような事情である。
(1)ジャワ島の多くの水田は共同所有であって、一村全体が共同作業をし、皆が収穫の分け前を得ていた。このような水田は形式的には王の所有であるが、事実上は何百年もの間、村落のものであった。つまり所有権は形式的には王にあったが、慣習法による使用権、または入会権は村民のものであった。
村落では相互扶助が発達し、貧しいものはおらず、助けあって生活していた。そのようなわけで個人名義の農地は非常に少なかった。
オランダ政府はこの制度を悪用した。インドネシアの地域王がオランダの臣下となると、土地がオランダの所有となった。村の共同体の何百年にわたる水田の使用権や入会権はまったく無視され、オランダは土地を完全に領有することとなった。
それまでは王が所有するという形式を取りながらも、実質は何百年も村落のものであったが、所有が王からオランダに移った途端に農民の耕作権は無くなり、日雇いの農園労働者になり、こじきと同様の境遇に転落した。それまでは、実質上は土地持ちの農民だったのである。オランダ政府はだいたい中国人に農園の経営を委託し、こうして現地人は中国人に使われることになったのである。こうして、中国人が経済の実権を握るという形態は最近まで続いている。
(2)これらの水田はいまやオランダのものであると宣言され、農民の権利、それまでの慣行、農民の意向や希望は無視され、農民のための米麦の生産は許されず、何百年の伝統が変更された。水田は潰され、砂糖、藍、タバコの生産のための畑に転用された。
(3)山地では、コーヒーの生産が行われ、農民が動員された。自分たちの水田の耕作ができず、たくさんの農民が飢えた。
(4)水田は潰され畑となった結果、コメの生産量が落ち、米価が高騰した。1835~45年にわたって、米価がバタビヤ(ジャカルタ)では1・5倍、スマランでは3倍、スラバヤでは2・5倍になった。
水田は全てオランダの土地になっており、農民には何らの権利も残っていなかった。以前は豊かに暮らしていた農民は、いまや無一物の日雇いの境遇に落ちていた。それがジャワ全体に及んだ。
(5)飢饉(ききん)の最盛期である1848~50年の3年問には、ジャワのドウマックという地方の人口は33万人から12万人に減少し、グロボガンという地方では9万人が9千人になった。
(本書ではその数が死亡によるものか、逃散[ちょうさん]によるものかは明示してない。しかし、農業社会のジャワで逃亡の農民を吸収する産業が他にあったわけでなく、農民が飢えて逃散すれば、浮浪者、こじきになるより他はない。ジャワ島全体が同じような状況であったことを考えると、この減少は死亡としてもよいかもしれない)
(6)オランダ政府は、これらの農業生産の管理を中国人の企業に任せた。インドネシア農民はオランダ政府と中国人資本家による二重の搾取を受けることになった。
(7)コーヒーはアラビアのモカが原産地で、非常に高価であった。インドネシアでこの時初めて、アジアでのコーヒー生産が企てられた。最初は水田に植え失敗。全部抜いた。ついで山地で栽培し成功した。オランダ側では数年にわたる実験の失敗にすぎぬが、農民にとっては自分たちの死活問題である。大規模な飢饉を招いた。
こうして、アジアで初めてのコーヒー生産が可能になった。農民の血と汗によって生産されたコーヒーは、欧州に輸出され、オランダに巨額の富をもたらした。
逆に低地向きの藍を山地で作り、農民は半年にわたって動員され「死ぬのも、子どもを産むのも藍畑で」というような惨状が展開した。この時は低地の農民は山地に狩り出され、自分のわずかの水田の世話はできず、稲は全滅。藍もできず飢饉になった。
(8)1846年には400万人が無料奉仕をさせられた。
(9)稀代の悪法であった強制栽培法は1870年ごろより漸次(ぜんじ)廃止されたが、コーヒーの強制栽培が廃止になったのは1917(大正6)年のことであった。
(10)インドネシア人はこのようにもともと事実上は自作農であったが、いまや転落し、住む家も土地もない農園労働者となり、農園の小屋に住まわせられた。この頃から農園主には懲罰権が与えられ、農園内に私設の刑務所(収容所)が設けられた。これは前払い金を受け取っている労働者が逃亡した場合の懲罰ということが建前だったが、乱用された。(ここまで山川出版社『世界現代史5巻』による)
豊かな水田と豊かな気候に恵まれたインドネシアは、人口が10分の1にすぎないオランダにより搾取され、20世紀の初頭には収奪され、社会の豊かさは破壊され尽くしていた。
そのような搾取と強奪は、神によって祝福されている白人の当然の権利であり、アジア人は虫のようにヒネリ潰されても当然であり、むしろ白人に奉仕したのは彼らにとって光栄だったのである。
20世紀の初頭からガソリン・エンジンが開発され自動車が広く使用されるようになり、スマトラから生産される石油はオランダにさらに巨万の富をもたらした。
20世紀の前半、世界の石油生産地はカスピ海沿岸、米国テキサス州、スマトラの3カ所で、まだ中近東の油田は開発されていなかった。戦前の世界最大の石油会社の一つはロイヤル・ダッチ・シェル、すなわちオランダ王室所有のシェル石油であった。
先年、ワヒド大統領はベアトリックス女王のインドネシア訪問時に植民地時代の謝罪を求めたが、これは無視された。
戦時中に日本はインドネシアの独立を与えようと準備していたが、実現しないままに敗戦を迎えた。スカルノ大統領は日本敗戦の2日後に独立を宣言した。オランダ側はこれを反乱であるとし、軍隊を送って鎮圧を試みたが、4年間の戦闘に敗北が続き、ついに1949年、インドネシアの独立を承認した。
占領中に日本は広くインドネシア人民を組織したが、それが同国独立の基礎となった。日本はアジアの各占領地で青年たちを指導者として立て、民衆の運動を組織したが、欧米植民地時代には現地の人間が指導者の立場に立つことなどは許されたことがなく、このような経験は「日本が東南アジアの各地に残した最大の革命的遺産である・・・」とのアジズ・シャリールの言葉をクリストファー・ソーンは引用している。(『太平洋戦争とは何だったのか』クリストファー・ソーン、草思社)
日本人は隣組を作らせ、班長を任命して、自分たちのことは相談して進めさせた。また、青年団を作り、団長、副団長、班長などの役付きを作り、自分たちで運営するようにさせたが、これはオランダのやり方とは大きな違いだった。
オランダ統治時代は住民の反乱を恐れ、長年の間、3人以上が話し合うのを禁じてきた。路上での立ち話も2人までとし、違反すると罰せられた。青年たちを組織し、自治能力を与えるなどとんでもないことであった。
オランダの期待としては、「日本の野蛮で過酷な軍政から解放されるときが来る。その時、インドネシア人たちはヨーロッパから兄たちが戻って来るのを熱狂して待つ」というものであった。現実はそうではなかった。(クリストファー・ソーン、前掲書)
太平洋戦争によってオランダはインドネシアを失い(当時これはオランダ領インド、蘭領印度(らんりょうインド)、蘭印などと呼ばれた)、インドネシアの農業生産物と石油による富の全てを失い、小国に戻ってしまい、国の経済は困窮した。
であるから、オランダにとって日本とは、それまで自分たちが神から与えられていた富を奪い、オランダの栄光を踏みにじった野蛮で低級な国民である。オランダはそれ以来、日本に対する癒やしがたい憎悪と軽蔑を持ち続けて来た。
ルディ・カウスブルックはインドネシアで育ち、日本占領当時はオランダ人のための収容所に入れられていた。以下は彼の著書からの紹介である。(『西欧の植民地喪失と日本』ルディ・カウスブルック、草思社)
彼の入っていた収容所はかつてオランダ人が経営していた農園の現地人労働者用の宿舎だった。日本人は「オランダ人がアジア人に与えた待遇と同じ」ことをオランダ人にも与えた。白人を、インドネシア人労働者の宿舎に泊めたのである。なんと耐え難い屈辱であったことよ!
オランダ時代の強制収容所ではインドネシア人は時に5人ずつ鎖でつながれ、そのまま便所にも行かせられたが、日本人はオランダ人にそんなことはしなかった。
戦時中はみなが不自由で苦しんだのであり、オランダ本国とインドネシアで抑留されたオランダ人とでは死亡率にさして違いはなかった。
オランダ人にとってガマンができなかったのは、「劣等人種である日本人に恥をかかされた」という一事である。白人に敗けるのならまだしもであるが、「非白人」にそのような屈辱を与えられたことが許せないのである。
カウスブルックによると「オランダ人は戦後の40年間・・・日本人に対する不満を述べ続けて来たが、自分たちのやったことが日本人の振る舞いとは違うと思っているのだろうか・・・自分たちの被害は調べ上げているが・・・自分たちが手を下して殺害し、虐待して死に追いやったインドネシア人は・・・永遠に誰もその名を知らない・・・」と言っている。また、カウスブルックが入っていた収容所ではオランダ人が現地人にしたような戦慄すべき行為を日本人はしなかった、とも言っている。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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後藤牧人(ごとう・まきと)
1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。