第1章 日本の周囲の状況
A インドネシア
1830年、オランダ領東インド総督のファン・デン・ボスは、インドネシアに「強制栽培法」という暴政を発布した。日本の天保年間(あと33年で明治元年)のことである。
この総督令によってインドネシア農民は、耕地の2割をオランダ本国のために耕作させられることになった。地方によって多少の違いがあるが、そこから産出する砂糖キビ、ゴム、コーヒー、藍などの供出が農民に義務付けられ、強制買い上げが行われた。ノルマを達成しない者は投獄された。
建前は2割であったが、しばしば一番良い土地が当てられ、収穫の少ない所では、全ての耕地が政府向けの畑に指定されるという乱暴なことも行われ、農民の困窮は甚だしかった。支払われた対価は極めて少なく、ほとんどが租税分として政府に還流し、農民は実質的にはただ働きを強いられた。
この施策はオランダ側としては大成功であり、植民地からの収益としては空前の額を短い間に上げることができ、この収益をもってオランダは産業革命を行い、国力は増大した。
このころ、オランダ南部のカトリック地域が独立してベルギーとなり、それを失うことによりオランダは困窮したが、その窮状を救ったのが「強制栽培法」で、1850年ごろには国家収入の3分の1が植民地からの収入であったという。
オランダは17世紀初めよりインドネシアを植民地として経営し、大いに発展したのであるが、イギリス、スペイン、そうしてナポレオンとの戦いにおいて圧迫を受け、特にその商船隊はイギリスの海軍により壊滅的な打撃を受け、18世紀の終わりから初めにかけてナポレオンの統治下にあり、国力は著しく衰退した。
つまり、このしばらくの間、オランダという国は滅んでしまっていたのである。世界中でオランダ国旗が翻っていたのはたった一カ所、長崎のオランダ屋敷だけ、という時期もあった。オランダと日本との因縁はこのように深いものがあるといえる。
ナポレオンの没落後、19世紀の初めにオランダは独立を取り戻し、明治維新の少し前に国力を回復し始め、その後100年間、20世紀の半ばに至るまで繁栄を誇ったが、国力回復の大きな要素はインドネシアの搾取であった。「強制栽培法」を発布し、厳しい取り立てを行い、わずか数年の間にインドネシアの農民は困窮の極みに置かれ、過酷な政策の性急な実施により米麦の生産は激減し、1848~50年前後には数百万人が餓死したといわれている(この数字については出典を明らかにできなかった。慶應大の福田和也氏が「文藝春秋」に載せていた数字である)。オランダは1870年にこの政策を緩和した。
当然、各地で農民の反抗が起こり、これに手を焼いたオランダ当局は世界で初めての強制収容所をスマトラに建設した。強制収容所とは裁判などの手続きなしに、行政官の裁量によって反抗的な者を収容するものであり、刑期は不定である。刑務所ではないので、囚人の命については収容所は責任を問われない。考えようによっては刑務所よりはるかに悪質なものである。
この強制収容所は、のちにナチスと共産主義政府によって多用された。これを最初に考案したのはオランダである。
また、スマトラなど場所によっては農園内に「私設刑務所」が設置され、農園主の意向によって労働者が投獄、拷問、殺害されることが日常的に行われていた。世界の植民地経営の歴史の中でも最大の収益を上げたオランダは、当然のこととして非人道的な施設を考案し、血も涙もない政策を行っていた。
ムルタトゥーリは、彼の小説『マックス・ハーフェラール(英語版)』(1860年)の中で、この時代の惨状を述べているという。本名はエドゥアルト・ダウエス・デッケル、当時のインドネシア在住の官吏で、住民の惨状を報告して左遷、辞職。この小説の影響もあって、「強制栽培法」は廃止されるに至った。日本語訳としては、1942年、朝倉純孝訳『蘭印に正義を叫ぶマックス・ハーフェラール』があるらしいが、2003年、佐藤弘幸訳『マックス・ハーフェラールーもしくはオランダ商事会社のコ-ヒー競売』がある。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
*
【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
ご注文は、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
◇
後藤牧人(ごとう・まきと)
1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。