私は、取扱説明書を読むのが好きではありません。新しい機器を買ったとき、取扱説明書を読んで使うより、まず電源を入れて、手に触れながら覚えていきたいと思います。
私が使っているiPhoneの好きなところは、取扱説明書がついてないばかりか、取扱説明書を読まなくても、感覚的に触れているうちに使えるようになるというコンセプトだからです。
しかし、いくら取扱説明書がなくても、そのままでは、多くある機能のごく一部しか使いこなせません。サポートセンターや詳しい人に聞いたり、ガイドブックを読んだりするなどした方がよいです。
先日納品された、新しいリソグラフの印刷機も、近日中に取扱説明書を一読したいと思っています。ごくごくシンプルな印刷機ですが、私が欲しかった機能が付いています。ランクとしては、下から2番目です。
なぜ2番目のものにしたかというと、パソコンと接続することで、パソコン内のデータをそのまま製版し、印刷できる機能が付いているからです。一番下のものだと、いったんコピー機で印刷した後、その原稿の製版を作って印刷するというプロセスが加わることで、大幅に仕上がりが粗悪になってしまうのです。
付属のドライバーCDは、すでにパソコンにインストールしましたが、シンプルなようでも相当いろいろなことに使えそうです。
以前使っていたリソグラフの印刷機では、インクとマスターは、純正のものではなく、汎用のものを使っていました。例えば、純正のインクは、1本で税抜き3千円ですが、汎用のものは、税抜きで2本3千円です。ただ、汎用はインクの中の水分が多く、印刷の仕上がりの質が悪く、もしかしたら、印刷機のドラムの寿命を早めてしまったかもしれません。
営業マンの説明によれば、リソグラフ機は、「機械の製造」と「機械と消耗品の販売」と「メンテナンスと修理」が三位一体だそうです。ここに、キリスト教の「父なる神、イエス・キリスト、聖霊」の本質を表す神学用語が出てきて驚きましたが、汎用品を使って壊れた場合は、保証対象外になるような話もされました。「だから、強制できませんが、当社の製品をお使いください」とお願いされました。
よくよく考えてみれば、純正品の方がはるかに品質も上です。取扱説明書を読むことで、印刷機への愛着が増し、一番ポテンシャルを発揮できる純正品を使うのが一番いいという結論に達しました。
最近、愛車のグローブボックスに眠っていた取扱説明書を出してきて、一読しました。ほとんどの部分は把握しているつもりでしたが、細かいいろいろな機能を発見して、驚いたり、感動したりしています。何より、車に対する愛着が深まりました。
愛車は、ちょっとした改造を施しています。といっても、わざわざ改造したのではありません。サスペンションが劣化したので、純正品の新品に交換しようとしましたが、それより値段が安く、かつ高性能な車高調整サスペンションに変えました。車高は7センチローダウンさせています。おかげで、段差のあるところで下回りを地面にこすってしまうことがあります。
排気ガスを出すマフラーは、ある日、根元から割れてしまったので、一式交換しないといけない状態になったとき、それより安いスポーツマフラーが目に留まり、それに交換しました。エンジンをかけた瞬間から重低音のエキゾーストノートが響き渡ります。おかげで燃費が悪くなり、低中速域のトルク感が減ったような気がします。もちろん、高速域は抜群によくなりましたが、私が乗っているミニバンのキャラクターにはあまり似合いません。
取扱説明書を読んでいると、ノーマルの状態が一番いいのではないかと感じます。あんなに静粛性の高かった車なのに、音はトラックのようですし、乗り心地はヨーロッパ車のように引き締まった感じです。
あと、インスタントラーメンの説明書はぜひ読んだ方がいいと思います。お湯の量は400ccと550ccでは味が全然違ってしまいますし、仕上がりまで5分なのに3分では硬い麺になってしまいます。
最後に、私たち人間の取扱説明書は、最低一読したいものです。人間の取扱説明書は、聖書です。英語では、「The」という定冠詞がつく「Bible」です。「Bible」の最初の文字の「B」は、小文字の「b」ではなく、大文字の「B」です。「The Bible」は、「本の中の本」という意味です。
聖書は、66巻の本が1冊になったものです。1500年の間に40人のいろいろな著者たちによって書かれました。
しかし、聖書の内容はバラバラなのではなく、統一性があります。40人の著者の背後には、神という本物の著者がいるからです。神が40人の著者を選び、導き、一人一人の個性を生かしながら各書を執筆させたからです。
人は、聖書の著者である神によって造られました。そして聖書は、私たち人間の取扱説明書です。
少し前に、首都圏イースターの集いの決起祈祷会が行われました。私が司会で、説教が三浦真信先生。説教題は「生ぬるさの原因」。聖書箇所は、ヨハネ黙示録3:14~22です。
また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。「アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
『わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。
耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい』」
「生ぬるさ」と聞いて何を思われるでしょうか? 案の定、この説教を聞いて、「そんな生ぬるい中途半端ではいけない。もっと真剣に熱くならなければいけない!」と受け止めた人がいました。仕方ないと思います。
しかし、この説教は、そういうことを意図していたのではありません。人は、聞きたいように聞くものだとあらためて思わせられました。
この熱さ、冷たさは、神様との関係における事柄です。熱いとは、神との親しい関係を持つことで、冷たいとは、神を除外した状態のことです。
イエス様は、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(3:20)と言われました。
生ぬるいとは、中途半端にイエス様を信じ、中途半端に自分の力で奉仕をし、それなりの成果を挙げ、実を結んでいる状態です。こういう状態のクリスチャンはかなり多いのではないかと思います。熱いと冷たいが混ざった状態。つまり生ぬるい状態です。
「だから、熱心になって、悔い改めなさい」(3:19)と言うのです。ここでいう「悔い改め」とは、「悔いて」生き方を「改める」ことではありません。「方向転換せよ」ということです。
ラオデキヤの教会のクリスチャンたちは、イエス様を信じていますが、心の外に追い出して、中途半端に自分の力で生きていました。それなりの成果を挙げ、実を結んでいたので、自他共に問題を感じていませんでした。
イエス様は、「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(3:17)と言われました。
自己満足しているけれど、実は、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」というのです。さながら、裸の王様のようです。
これは、未信者に語られているのではなく、クリスチャンたちに語られているのです。そしてイエス様は、「心の扉を開いて私を受け入れてほしい!」「一緒に食事をしよう!」と言われるのです。イエス様と食事を共にし、イエス様との親しい熱い関係を築かせていただきましょう。
これが、私たち人間の取扱説明書の言葉です。私たち人間が考え出した、宗教書、哲学書には触れられていない内容です。「生ぬるい」と聞いて、「もっと熱くなるように頑張ろう!」というのは、実は、とんでもない的外れなのです。もっと生ぬるい状態に向かって進むことになります。
今日、生きることに疲れている人がいますか?
今日、仕事に疲れている人がいますか?
今日、人間関係に疲れている人がいますか?
今日、人生に疲れている人がいますか?
イエス様は、そんなあなたに声を掛けておられます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)
イエス様は、「一緒に食事をしよう」と声を掛けてくださるのです。ここに悔い改め、ここに立ち返りましょう。ここに私たちの帰るべき居場所があります。
取扱説明書は、どんなジャンルのものでも大切ですが、特に、私たち人間の取扱説明書は大切です。一読し、熟読し、愛読していきましょう。
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菅野直基(かんの・なおき)
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッション等、地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での讃美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式等、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
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