三寒四温(さんかんしおん)とは、冬の時期に、7日周期で寒い日が3日続き、その後4日暖かい日が続く現象のことをいいます。厳密に言えば、東京にははっきりした三寒四温はありません。不規則に寒い日と暖かい日が交互に訪れて、春がやって来ます。
季節を擬人化すると、冬は少しでもその場所を寒くしようと一生懸命です。そこに春がやって来て、その場所を暖かくしようと対立します。三寒四温とは、冬対春の戦いです。冬が秋を倒して失脚させた後には、冬の季節がやって来ます。しばらくは無敵ですが、寿命があります。やがて春がやって来て、春に負けて冬の季節が終わります。
人の成長はこれと似ているのではないかと思います。古い過去の自分から、新しい成長した自分に変わるためには、三寒四温と似た現象が起こります。成長しようという自分と、変わりたくないという自分が戦います。
人は本来、季節が巡り巡るように、絶えず成長し、変化していくものです。脱皮しないヘビは死んでしまうように、変化をやめた人は、生きているようで死んでいます。しかし、「変わりたくない!」という古い自分はしぶとく、執念深いです。
タバコやお酒をやめられない人をたくさん知っていると思います。特に、覚せい剤(薬)は深刻です。しかし、本当は、やめたいのにやめられないのではなく、やめたい気持ちよりも、やめたくない気持ちの方が勝っているからやめられないのです。朝起きられない人の起きられない原因は、今すぐ布団から出て起き上がるよりも、「布団をかぶったまま寝ていたい」気持ちの方が勝っているからです。
自己保身にとらわれている人をいくらでも知っていると思います。自分を守るために必死になっています。聖書に出て来る多くの人々は、単なる自己保身ではなく、「自分を変えたくない!」人間の本質をはっきり見せてくれます。
イエス・キリストは、神が人間の姿を取って来られた救い主です。罪から救い出し、古い人をイエス様と一緒に十字架につけて磔殺(たくさつ)し、イエス様と一緒に新しく生まれ変わらせてくださいます。
皆さん、イエス様を信じる人には、イエス様に起こったことと同じことが起こります。しかし、変わりたくない当時の宗教指導者は、待ち望んでいた救い主がついに来られたのに、心をかたくなにし、イエス様を拒否しました。
イエス様は、神の御霊によって神の御国を来たらせました。イエス様は、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人から悪霊を追い出し、目と口を癒やされました。
こんな病気を治せるのは待ち望んでいた救い主以外にはいないはずです。それを見た群衆は、「この人は、ダビデの子なのだろうか」、つまり「救い主なのでしょうか? そう思いませんか?(私はそう思いたいです)」と口々に語り合いました。
しかし、宗教指導者たちは、イエス様の業に対して「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と断定しました。指導者が、「イエスは救い主ではなく、悪霊に仕える者だ!」と断定した以上は、いくら多くの群衆がイエス様を信じたいと思っても、それ以上反論はできませんでした。
イエス様は、「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜(ぼうとく)も赦(ゆる)していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタイ12:31、32)と言いました。
私は、今まで20人以上の人から、この上記の聖句の意味を教えてくださいと質問されました。なぜ、「聖霊に逆らう冒涜」だけは赦されないのでしょうか?
宗教指導者たちは、イエス様が御霊の力によって行われた悪霊追い出しと癒やしを、「悪霊の業だ!」と断定してしまいました。みなさん、考えてみてください。指導者が、イエス様の働きを「悪霊の業だ!」と断定してしまったのは、「聖霊に逆らう冒涜」です。そして、聖霊に逆らったならば、救いは閉ざされてしまうのです。
聖書には、イエス・キリストだけが唯一の救いの道を開かれたと書かれています。イエス様を拒否したら、もうそのほかに救いはないのです。
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』」(ヨハネ14:6)
「皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒4:10~12)
話は戻りますが、人は本質的に変わりたくない悲しい本性を持っています。宗教指導者たちは、伝統と先祖たちの言い伝えを守り、変わりたくないという心が勝って、イエス様を十字架につけて処刑してしまったのです。
私たちは、イエス様が十字架で処刑された現場に立ち会ってはいませんし、見たこともありません。しかし、あの宗教指導者たちやユダヤの群衆たちと同根の罪を持っているのです。
人は、人を新しく変えるイエス様を除外したいという罪の性質を持っています。キリスト教徒は、世界の人口の3人に1人くらいの割合でいます。私は、宗教としてキリスト教を受け入れている人は膨大な数に上りますが、本当の意味でイエス様を救い主として受け入れている人は、その数より少ないと思います。
日本では、90パーセント以上の人がイエス様を拒否しているか、知らないか、信じていません。日本人は、人間味に溢れているのです。私は日本を愛しています。人間味溢れる日本人が救われてほしいと心から願っています。
人はなぜ変わりたくないのでしょうか? 変化を恐れているのです。クリスチャンの中には、立派で敬虔な人をたくさん知っています。しかし、悪い意味で人間味溢れている人もいます。
イエス様を受け入れるということは、古い自分と新しく生まれ変わった自分が戦い始めることです。クリスチャンには、精神的・霊的に三寒四温が起こっているのです。最後は、古い人が負けて、新しい人が勝ちます。いや、新しい人が勝つことが決まっているのです。それは、季節が回り回るようにです。
3月に入り、やがて春が来るように、私たちはイエス様を信じて新しく生まれ変わり、成長していきます。毎日の三寒四温を感じながら、人は成長し、変えられていくことに希望を持っていきましょう。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)
変化を恐れる必要はありません。変化を期待してください。人は変化した分だけ幸せになり、変化した分だけ神様の豊かな祝福を味わうことができるからです。祝福を祈ります。
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菅野直基(かんの・なおき)
1971年東京都生まれ。新宿福興教会牧師。子ども公園伝道、路傍伝道、ホームレス救済伝道、買売春レスキュー・ミッション等、地域に根ざした宣教活動や、海外や国内での巡回伝道、各種聖会での讃美リードや奏楽、日本の津々浦々での冠婚葬祭の司式等、幅広く奉仕している。日本民族総福音化運動協議会理事。
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