キリスト教は排他的だ。多神教のほうが寛容でいい。
およそ真理というものは排他的です。真理を得るためには、相対立する多くのものの中から正しいものを選択し、誤りのものを捨て去るという作業がなされねばならないからです。それをせずに何でもいいというのは、真理を軽視する態度だと言わねばなりません。
科学は、いつも正しいものを取り出し、間違ったものを捨ててきました。キリスト教も科学的ですから、間違ったものを捨てるのです。誰でも2+2は4であると確信します。それを5でもいいとか、6でもいいという扱いはできないのです。それと同じなのです。
寛容だという多神教は、現世ご利益という欲望うけたまわり宗教、通りすがりの敬意表明を受ける宗教、人生行事セレモニー宗教などを扱うもので、真理に真剣に対峙(たいじ)しなくていい宗教です。だから、どちらでもいい、という態度になるのです。
本当の宗教は、物事を真面目に究明するもの、自分の魂を託するもの、ですから決断して信じるのです。そうなると、決断したものに正しさの確信を持つのは当然です。だから、迫害されても、たやすく捨てたり、他に移ったりしないのも当然です。“これ一筋”という真剣さ・生真面目さがあります。
一人の人が異性の方と恋愛するとき、その異性の方は通常一人です。二人いても、いつか一人に絞られてくるべきものです。それがいつも四人や五人いるとなると、それは不真面目と見られるでしょう。同様に、信じる宗教も一つになるはずです。多神教は寛容なのではなく、不真面目であって、真剣な人が取るべき態度ではありません。
キリスト教には明確な神観、世界観があり、独一無二(唯一無二)のユニークな宗教で、信徒はその基本に確信を持っております。だから、その上に立って生活し、全人生を築いていこうとします。従って、もしそれに衝突するような主張やら哲学、宗教などに出合うと、それに同調できないと考えるのは当然なのです。それを“排他的”と言われても、確信に関することですからどうしようもないのです。もちろん、いたずらに他を攻撃するということではありません。端的に言えば、尋ねられたら「私はそうは思いません」、他の宗教行事を強制されたら「私は参加できません」と言うだけです。このぐらいのことを認める寛容さを日本の社会は持ってほしいのです。
仏教徒と一体になった徳川政権の不寛容さはいかばかりだったでしょう。その切支丹迫害は残酷きわまりないもので、身の毛のよだつような責め苦で棄教を迫り、長期間にわたり徹底して取り締まりました。訴人褒章制、寺請制、葬式仏僧立会制、宗門改帳制、五人組制、踏み絵、ころび書物(かきもの)、禁書令、キリシタン類族令と、これでもかこれでもかと厳しくし、まさに一木一草も残さないとの態度で探索し、根絶やしにしました。この不寛容さ、排他性は世界に例のないものでした。それは良くない排他性でした。真理への確信性という意味での排他性、同時に、他への寛容さ、この二つが肝要なのです。
日本国憲法第20条
① 信教の自由は、何人に対してこれを保障する。・・・
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
キリスト者も他者へこれを守りますから、非キリスト者・その社会も、日本国民なら当然の儀礼だとか、社会のしきたりだ、習俗だ、とかの言い方で、拝礼やお祭り参加や焼香や斉唱などを強制しないようお願いしたいものです。
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正木弥(まさき・や)
1943年生まれ。香川県高松市出身。京都大学卒。17歳で信仰、40歳で召命を受け、48歳で公務員を辞め、単立恵みの森キリスト教会牧師となる。現在、アイオーンキリスト教会を開拓中。著書に『ザグロスの高原を行く』『創造論と進化論 〜覚え書〜 古い地球説から』『仏教に魂を託せるか』『ものみの塔の新世界訳聖書は改ざん聖書』(ビブリア書房)など。
【正木弥著書】
『なにゆえキリストの道なのか 〜ぶしつけな240の質問に答える〜 増補版』
『仏教に魂を託せるか 〜その全体像から見た問題点〜 改訂版』
『ザグロスの高原を行く イザヤによるクル王の遺産』(イーグレープ)