2015年はテロとともに始まり、テロとともに幕を閉じようとしている。暴力と恐怖の連鎖が世界を覆い尽くそうとしているかのようだ。
この感覚には覚えがある。2001年9月11日。ワールドトレードセンターに旅客機が突入していくのを目撃していた。タワーの崩落、家族で逃げた道、それに続く避難生活。ブッシュ大統領による宣戦布告、アフガニスタン空爆。タリバンに空爆しても何の意味もないこと、罪のない命がさらに奪われることを頭では理解していても、怒りと悲しみと恐怖で混乱した心は「やれ!」と空爆を認めていた。暴力と恐怖の連鎖が始まった。それは止まることなくチェインリアクションを繰り返し、今また新たな段階に達したように見える。
2015年1月の出来事を思い出す。今年が広島・長崎への原爆投下から70年に当たることから、被爆の現実とその世界的な意味を問い直すドキュメンタリーとワークショップ制作の準備をしていた。その底に流れるテーマは、戦争という暴力とその連鎖だ。究極の暴力は原爆投下で臨界点を超え、それによって殺し合いをけん制し合うという危険なバランスの中に人類全体が置かれることになった。核という無限のエネルギーのパンドラの箱を開け、そのパワーを最初に手に入れたのはアメリカだった。それを行使して世界のパワーバランスで優位に立つことが何よりも優先された。無数の無辜(むこ)の民の犠牲は無視され、その被害は今もなお隠蔽(いんぺい)され続けている。被爆者は沈黙を強いられ、核保有国はもちろん、核の最大の被害国である日本でも、核のアジェンダが推し進められていった。
その歴史を日米の若い世代と共に学び直し、1945年の出来事が単なる過去ではなく今につながっていること、核の問題は他人事ではなく自分の生活に直接関係があることを知り、自分たちに何ができるかを表現するのがワークショップの狙いであり、ドキュメンタリーのメーンテーマだった。
その準備の真っ只中、1月20日に長年の友人がシリアでテロリストに拘束されたというニュースが飛び込んできた。後藤健二さんだ。絶望感と無力感に立つことすらできなかった。しかし仲間たちから「なんとかしなきゃ!」と励まされ、祈りと連帯の気持ちを込めて「I AM KENJI」の呼び掛けを始めた。「命を救ってくれ」という願いと「みんな応援してるぞ」という声を健二さんに届けたかった。世界中に支援の輪が広がった。しかし、その祈りは最もむごい形で否定される。今まで感じたことのないような怒りと悲しみ。暴力と恐怖に心がまた支配された。
シリアでもイラクでもアフガニスタンでも、世界中で健二さんの仲間が集まり慟哭(どうこく)し、キャンドルをともし、祈り、誓った。「絶対に忘れない」と。そして「KENJI、君を死なせない」と語り合った。健二さんは多くの仲間と共に素晴らしい仕事を始め、まだまだやりかけの仕事が多く残されている。その一つ一つを自分たちの持ち場で、少しずつ続ければいいじゃないか、健二と共に。そう語り合った。暴力と恐怖に支配されること、それこそ健二の命を奪った者たちの意図するところだ。一人一人がこの負の連鎖をまず断ち切らねばならない。
広島、長崎を旅しながら、健二さんのことが頭を離れることはなかった。戦争で一番傷つくのは普通の人々だ。そして戦争を引き起こす人々は虐げられた人々の声を押しつぶす。健二さんはそんな声なき人々の声を伝え続けていた。その声を聞き取り、記憶に刻み、その意味を伝えていく。被爆者の方々と若い仲間たちとで、ワークショップを通じて丹念にその作業をしながら、健二さんとの「やりかけの仕事」を同じ目標に向かって歩んでいる実感があった。恐怖と暴力がなくなる日は遠いかもしれない。しかし一人一人が希望を持って前に進まなければ、その日は絶対に訪れない。われわれの仲間も、健二さんと直接知り合いではなかった人々も、それぞれが「やりかけの仕事」を続けている。「恐怖」ではなく「希望」で心を満たして。
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