2011年の内戦勃発以来、混迷が続くシリア。近年、ヨーロッパ諸国へ避難する多くのシリア人の様子がメディアを通して伝えられている。日本政府の避難民に対する対応はどうなっているのだろうか? 安倍晋三首相は、9月30日に行われた国連総会の中で「イラク、シリアの難民・国内避難民に向けた支援を一層厚くする」と演説した。
日本国内に住むシリア人は、およそ400人。そのうち2014年には、61人が日本政府に対し難民申請を行ったが、認定されたのはわずか3人(シリア難民弁護団調べ)。今年3月には、4人(22~35歳)の在日シリア人が正式な難民認定を求めて提訴した。原告の1人、Mさん(22歳)に話を聞いた。中東人らしい端整な顔立ちのMさん。きれいな澄んだ瞳に映ったのは、変わり果てた祖国の姿だった。何を思い、どのような経緯で日本にたどり着いたのだろうか。
Mさんが来日したのは、約3年前。シリア国内のクルド人が多く居住する地域に家族と共に住んでいた。農業を営む父親と8人のきょうだいと共に、美しいシリアの田舎町で暮らしていた。大学では農学を専攻し、将来は父親と共に作物を育てるのが夢だった。しかし、2011年の内戦勃発以来、それまでの暮らしが一変、町中にあった大学は授業をすることすら困難になり、現在も休校中。Mさんの通学は数カ月間のみで、その後は授業を受けることができなかった。大学に通っていたため、兵役は逃れ、Mさんは兵士として戦ったことは一度もない。銀行などの金融機関は、それまでMさんの住む町にもあったが、現在は、首都のダマスカスにあるだけで、他はすべて閉店してしまった。毎日のように爆撃機が町を襲い、その飛行機や着弾する「ドーン」という音は、今も耳に残っている。「朝も夜も何時間も攻撃が続く日もあれば、すぐに終わる日もあったが、とにかく怖かった」と当時のことを話す。身の危険を感じたきょうだいたちは、次々とイギリスやドイツに避難。両親と残りのきょうだいは、今もシリアに残ったままだ。Mさんは、きょうだいのいるイギリスへ避難する予定だった。「ブローカー」を通して手続きを行ったが、彼によると、シリアからドバイへ行き、その後、日本で乗り換えた後、イギリスに向かうと説明された。順調にシリアを出国、ドバイから乗り継ぎのために日本へ。そして、日本から乗った飛行機が向かった先は、イギリスではなく、フランスだった。
「ブローカーにだまされた」とMさんは話す。フランスの空港では、「私はテロリストではない! イギリスに行きたいだけだ!」と訴えたが、入国すら許されず、乗り換え地であった日本に戻るように告げられた。再び、フランスから成田空港へ。成田の入国管理局で難民認定申請を行い、その後、1年更新の人道上の配慮による在留許可を得て、現在も更新を続けながら日本に住み続けている。生活が不安定な上、国外に出ることはできない。シリアに残した家族とは、電話を通して話しているが、いつ家族に危険が及ぶのかと思うと、毎日が心配と不安の連続だという。シリア国内は、電気の供給が不安定なため、電話が通じる日も限られている。
「私は、安全な暮らし、楽しい暮らしをしたいと思って国を出てきた。友人の中には、奥さんや子ども、すべてを戦争で失った人もいる。シリアは、食糧さえ十分になく、医療の手も十分に届いていない。しかし、私を支援してくれている日本の団体の方々には感謝をしている」とMさんは話す。敬虔なイスラム教徒であるMさんは毎日の祈りも欠かさない。「戦争が終われば、シリアに帰りたいが、まだ終わりそうもない」と肩を落とす。
まずは、正式に難民の認定を受けること、そして、大学に復学したいとの願いが、現在の彼の夢だ。
シリア難民弁護団の1人は、「日本政府は、現在のシリア情勢に照らし合わせ、国際社会と協調した受け入れを」と訴える。
14日、パリで起きたテロ事件を機に、ますます難民規制の動きが強まる中、日本政府の今後の動きに注目が集まりそうだ。