第二次世界大戦中に日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアの臨時首都カウナスで、ナチス・ドイツからの迫害を逃れる約6000人のユダヤ人にビザを発給した杉原千畝氏(1900~86)。その命日である7月31日を前に28日、正教徒だった杉原氏を記憶するための祈りが、鎌倉霊園(神奈川県鎌倉市)で行われた。
同日午後2時半頃から、同霊園内の祭場で、「パニヒダ」と呼ばれる永眠者のための祈りが、日本正教会東京復活大聖堂教会(ニコライ堂)の司祭であるクリメント北原史門神父の司祷によって約30分間行われ、遺族ら約10人が参列した。北原神父によると、杉原さんのためのパニヒダはこれが初めてだという。
パニヒダは、「徹夜の祈り」という意味のギリシャ語に由来。北原神父によると、永眠者のために夜通し祈るという習慣は、1、2世紀ごろから守られ続けてきた習慣だという。
この日のパニヒダでは、罪の赦(ゆる)しを願う祈りが多く行われた。「これだけの偉業を残された方がなぜ罪人扱いされなければいけないのかとお思いかもしれませんが、罪というのはギリシャ語でアマルティアと言いまして、的外れという意味の言葉です。少しでも神様に向けて歩んでいく道筋から外れたものを全部罪としてカウントするのです」と北原神父。「そうしますと、パウェル(杉原氏の聖名、洗礼で与えられる名)杉原兄でいらしても、そういうものまで罪としてカウントするのであれば、(罪が)なかったということはなく、そういった罪まで赦してくださいという祈りが、この永眠者のための祈りの趣旨です」と説明した。
パニヒダの最後の部分では 、「永遠の記憶」という祈りが献じられた。これは、神の意思と人間の自由意思が一致したところに救いの実現があるという考えをよく表している祈りだという。
日本では多くのユダヤ人を救ったとして、杉原氏が広く知られているが、北原神父によると、パリにも正教会の信者で、ユダヤ人を救ったことで知られるパリの聖マリヤ(1891〜1945)という女性がいるという。ロシアの貴族であったが、ロシア革命時にパリへ亡命し修道女となった。ナチス占領下のパリでユダヤ人をかくまっては逃がしていたが、ナチスの秘密警察ゲシュタポに見つかり、女性の囚人を収容したことで有名だったラーフェンスブリュック強制収容所に移送され、そこで永眠したという。2004年には、正教会の聖人として列聖された。
「西にパリの聖マリヤ、東のカウナスにパウェル杉原兄という方が、ユダヤ人を助けるために遣わされたというのも、何かの神様のご意志だったかもしれません」と北原神父。杉原氏の列聖を願い、杉原氏のイコンを描いている信者もいるそうだが、「列聖されようとされまいと、西のパリの聖マリヤと東のカウナスのパウェル杉原兄が多くのユダヤ人を救ったことは、神様の御心に沿って、お二人が自由意思によってなされた偉業であったことを私は信じております」と語った。
杉原氏は日頃から、「自分はたいしたことをしたわけではない。その場にいて最善のことを、当然のことをしたまでである」などと話していたという。北原神父は「私どもにいつそういう決断を迫られる時が来るか分からないということでもあります。そういう決断を迫られたとき、パウェル杉原兄と同じような選択ができる者となりえますように、神様に願いながら日々祈り過ごしていきたいと願います。アミン」と結び、この日のパニヒダを終えた。
このパニヒダの前には、同霊園内にある杉原家の墓前で、パニヒダの一部である「リティヤ」(熱切な祈祷の意)と呼ばれる永眠者のための短い祈りが献じられた。
この日のパニヒダには、杉原氏の義理の娘で、NPO法人「杉原千畝命のビザ」理事の杉原美智さんも参列した。美智さんは、義父の杉原氏が正教会の信者であったことを聞いており、杉原氏は晩年、孫娘に「できたら司祭を呼んでほしい」と話し、葬儀も正教会の形式を希望していたという。この願いはさまざまな事情でかなえられなかったが、今年4月、杉原氏ら3人のクリスチャンの生涯を取り上げたDVD『激動の20世紀を生きた三人のクリスチャン』(いのちのことば社)の完成披露試写会で、杉原氏の遺族が北原神父と出会ったことがきっかけとなり、この日の祈りが実現できたという。美智さんは、「父がきっととても喜んでいることだと思います。父の望みがようやくかなえられたかなと思っています」と話した。