「『目が見えなくて良かった』なんて優等生みたいなことは言えません。僕は、目が見えていたら、もっといろいろなことができたかもしれない。もっとピアノが上手に弾けていたかもしれない。それでも、今、思うのは、『目が見えないままの僕』を神様が必要としていたこと。神様のご計画には逆らえませんね」
そう話すのは、全盲のピアニスト、声楽家として、全国の教会、自治体などで数多くの演奏会や講演会を行っている北田康広さん(49)。1965年6月28日、徳島県に生まれた北田さん。1600グラムの早産で、すぐに保育器に入れられた。生死をさまよったものの、一命は取り留めた。しかし、2カ月間という長い期間、保育器に入っていたため、酸素量が多過ぎて未熟児網膜症に。それでも5歳までは、他の子より視力は弱いままだったが、活発な子どもとして育った。「幼い妹を自転車の後ろに乗せて走ったような記憶もあります。その時は、他の子より見えなかったかもしれませんが、僕にとっては、生まれた時から見ていた景色でしたから、不便とも何とも思いませんでした」と北田さんは話す。
しかし、あまりにも見えにくそうにしている息子をふびんに思った母が、徳島県内外の病院を回り、何とか見えるようにならないかと、検査や治療を試みるようになった。ある日、「保険適用外ではあるが、よく見えるようになる薬がある」と知らされ、それを試すことになった。「多用すると失明する危険がある」と医師から忠告されていたが、その薬を注射すると、劇的に見えるようになった。4、5回投薬を繰り返しているうちに、何かが弾けたように「パチッ」と音がしたかと思うと、目の前が真っ暗になり、視力を完全に失ってしまった。
家族にとって、最大の不幸が訪れたと思われたが、それとは裏腹に父の事業は絶好調だった。時代は高度成長期。徳島県では珍しかった養鯉業が大当たりし、父はお金の亡者となっていった。父が面白いように稼いだそのお金を、母は北田さんの目を何とか治そうと、いわゆる「新興宗教」につぎ込むようになった。多額のお金を家から持ち出し、みつぐまでに。当然、夫婦関係は悪化していった。両親の表情をうかがい知ることはできなかったが、不穏な空気を肌で感じたという。
ある日のこと、父がものすごい勢いで母を怒鳴ったかと思うと、母を家から追い出してしまった。妹は母に引き取られ、北田さんは父親の元に残った。程なくして、父と交際していた女性が家にやってきたが、その女性から嫌がらせを受けるように。当時、既に小学生だった北田さんは、全寮制の盲学校(特別支援学校)にいたため、その女性とは週末以外は顔を合わすことはなかったが、それでも週末が来るのが苦痛だった。
一方、寮生活は「過酷そのものだった」という。起床のブザーが鳴り、1日が始まる。点呼、体操、掃除、食事、登校と、学習時間も自由時間も寝る時間も全てブザーで管理された。破ると体罰が待っている。狭い部屋に何人も押し込められ、生活をした。食事は特に厳しく、おやつは認められていないばかりか、あめ玉一つでも持ち込めば、体罰の対象となった。そして、9歳の時、両親が正式に離婚した。
そんな時、唯一の癒やしであり、楽しみであり、慰めであったのが音楽だった。ピアノを奏でている時は、全てを忘れられた。耳の中から、両親の怒鳴り合う声も、友達がからかう声も全てが消えていった。
中学3年生の頃、独学で勉強していたピアノの道に進みたいと秘かに思うようになった。当時、全盲の生徒が音楽の道に進むのは非常に困難だった。そんな時に転任してきた理科の教師との出会いが、その後の北田さんの人生を大きく変えることになった。その教師は、「目が見えないからといって、諦めてはいけない!希望を持て!」と、北田さんを励まし続けた。クリスチャンだったその教師は、時折、教会にも連れて行ってくれた。礼拝での奏楽の奉仕も勧めてくれた。同時に学校の勉強も熱心に見てくれた。北田さんは、「教会の音楽こそ生きた音楽だと感じた」とその時のことを振り返る。
高校卒業後、筑波大学附属盲学校音楽科に進学。2年間、ピアノに打ち込み、音楽大学進学を次の目標に見据えた。晴眼者の何倍も練習した。音符は点字のものを使用するが、右手用の音符を左手で読みながら右手で鍵盤をたたき、同じく左手用の音符を右手で読みながら左手で鍵盤をたたいて覚えた。
猛練習が報われ、見事、武蔵野音楽大学ピアノ科に合格。大学で知り合った陽子さんと、卒業後に結婚した。1993年のイースターには、夫婦で受洗。現在では、コンサートで北田さんが歌うときには、陽子さんがピアノ伴奏をする姿も見られる。
「音楽は目に見ることはできません。音は聞こえては消え、また別の音が聞こえてきて、その連続で音楽ができています。信仰も音楽に似ていると思います。神様を見ることはできません。でも、日々の恵みの連続で、神様を感じることができるのだと思います」と北田さんは語る。
「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。』 イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」(ヨハネ9:2〜3)の御言葉を挙げ、「ミスのない演奏を目指すよりも、『今日、その演奏によって何が伝わったか?』『神様の愛に一人でも多くの人が触れることができたか?』の方が私にとっては重要で、私の音楽の最大の目的だと思っています」と語った。
2012年3月11日には東日本大震災を覚えて、16曲の讃美歌を収録した『人生の海の嵐に』をリリース。この他、デビュー20周年記念アルバム『Mind's eye』(10年)や『藍色の旋律―愛・祈り・平和・自由―』(09年)、『心の瞳』(06年)、『ことりがそらを』(04年)などのアルバムがある。