東京都世田谷区の日本基督教団東京都民教会で23日、「戦争経験を聴く会・語る会」が行われた。戦後70年を迎える今年は、「世田谷の疎開学童と特攻隊」をテーマに、学童疎開の経験者を中心に約50人が集まり、それぞれ当時の記憶を語り合った。
「聴く会・語る会」は、世田谷の文化や遺産を研究している作家のきむらけんさんが中心となり、8年前から行われている。歴史の表舞台で語られることはないが、決して「起こらなかったことではない」真実を風化させないために毎年開かれている。
太平洋戦争中の東京への空襲としては、10万人以上の死者を出した1945年3月の「東京大空襲」が有名だ。しかし、東京大空襲で使用された爆薬は約2000トンであるのに対し、同年5月下旬にあった「山の手大空襲」では、3倍以上の約6900トンが使われた。東京都民教会のある小高い丘の多い世田谷区・下北沢周辺も一面の焼け野原となった。ある記録によれば、現在、下北沢駅近くの踏み切りとなっている地点から、新宿の伊勢丹本店がある地点まで全て焼け落ち、一望できるほどの惨状だったという。
「戦争が始まったら殺し合いが続き、命が軽んじられる。人が人ではなくなり、やめようとなかなか言えなくなる」ときむらさん。「戦争経験者の肉声を聞き、『戦争とはいかなるものか』を知るため、記録されていないが、記憶されている戦争の歴史を伝えたい」と語り、集会が始まると、戦争経験者たちのかなたの記憶が思い起こされ、重い口々が徐々に開かれていった。
この日集まった人の多くは、幼い頃、世田谷に住んでいた人たちで、戦時中は長野県松本市の浅間温泉に疎開した。みな小学生くらいの年齢で、夜行列車の中で遠足気分ではしゃぐ子もいれば、親との別れを覚悟し泣く子もいたという。いざ長野に着いても、都会の子と地元の子の間でけんかやいじめなどもあったが、一緒に遊んで仲良くなることもあったという。世田谷から浅間温泉へは、7校約3000人の学童たちが疎開した。
一方、その頃、同地には沖縄での特攻作戦を控えた特攻隊が来ていた。通常の戦闘機から通信機などの重い機材を外し、爆薬を搭載する「爆装改修」をするためにこの地に飛来したのだ。隊員の多くは、17、18歳くらいのまだあどけなさの残る青年たちだったという。
この地に疎開していた学童と、これから死地に向かう特攻隊員たちの交流がこうして生まれた。学童たちは手製の人形や紙飛行機などを贈り、隊員たちを激励し、そのお礼に隊員たちは当時の流行歌「パイロット小唄」の替え歌に郷愁や平和への願い、慕情などを乗せて、学童たちと共に歌い、別れを惜しんだ。
当時は録音機材などなく、歌は口伝で伝わった。今となっては映画や動画に断片的に残っているのみだ。また、特攻隊員のほとんどがその命を散らし、この歌は歴史から消えるはずだった。しかし、当時疎開していた学童の一人で、この日の参加者でもある秋元佳子さん(81)が詳細に歌詞とメロディーを覚えていた。この日は、作曲家・明石隼太さんの協力で再現され歌が披露された。
戦争経験は、多くの人にとって話すのもつらい記憶。「墓の中まで持って行こう」と考えている人も少なくないという。しかし、会場にいた若い世代からは、肉親や身近な人から話を聴くことで、次の世代にもより鮮明に伝えられるという声も上がった。最後には、きむらさんが「小学校などで話す機会を設けて、後世に『戦争は何としてもやってはいけない』と、子どもを巻き込んで伝えていきましょう」と話し、集会を終えた。