日本基督教団神戸栄光教会(神戸市)で11月28日、フランスの超教派の男子修道会「テゼ共同体」のブラザーを迎えて、祈りの集い「信頼の源へ -テゼのうた テゼの祈りー」が行われ、300人を超える人々が集まり、歌と祈りをささげた。毎年冬に日本を訪問するフランス・テゼ共同体のブラザーを迎えて行われたもので、2011年はカトリック六甲教会、2012年はカトリック神戸中央教会、2013年は日本聖公会芦屋聖マルコ教会で行われた。
祈りに先立ち、ブラザー・ギランは、「神戸で皆さんとまた一つに集うことができ、共に神に感謝します。この神戸栄光教会は阪神淡路大震災で会堂が全壊した痛みを経験し、『復活のしるし』として美しく再建された教会です。今日、その教会でキリスト教のさまざまな教派から集いました。この交わりのしるしがテゼにとってとても大切なことです」と語り、来年2015年が、創設者であるブラザー・ロジェがフランスのテゼ村に訪れてから75年目であることに触れ、和解を生きることの大切さを伝えた。
そして1時間にわたり、聖書の言葉を用いた短くシンプルなメロディを繰り返し歌う歌と、テゼの特徴である、長い沈黙のときを通して祈りをささげた。歌の合間には、教会の一致が説かれるコリントの信徒への手紙一12章13〜27節が、日本語、英語、中国語、韓国語で朗読された。
テゼ共同体は、フランスのテゼ村にある超教派のキリスト教男子修道会。第二次世界大戦さなかの1940年、改革派のスイス人牧師の息子だった、ブラザー・ロジェ(ロジェ・ルイ・シュッツ=マルソーシュ)がフランスのマジノ要塞から数キロのテゼ村に一人で移り住み、祈りと労働ともてなしの生活を始めた。苦悩する人々と連帯して生きることが、信仰上不可欠であると考えていたロジェは、ナチスから逃れるユダヤ人亡命者の支援を行い、フランス解放後はドイツ人捕虜のための支援を行った。
次第に共鳴する人が集まる中、1949年の復活祭にロジェを中心に7人が修道士(ブラザー)として教派を超えて共に修道生活をする誓願を立て、男子の修道会・テゼ共同体が正式に発足した。現在は、カトリック・プロテスタント各派の約100人の修道士が生活している。共同体では、可能な限り同じ生活状態を分かち合いながら、極貧の人々、ストリートチルドレン、囚人、死にゆく人、愛の関係を失い捨てられた人々の間で、「愛のしるし」を表す働きを続けてきた。バングラデシュやセネガル、ブラジル、韓国などに「テゼ・ハウス」と呼ばれる分院がある。
また、1950年代後半から若者が集まるようになり、現在は年間数万人の若者が世界から訪れる。毎年年末から年始にかけてヨーロッパ青年大会が行われる他、アジア、アフリカ、南北アメリカでも「地上における信頼の巡礼」と名付けられた大会が行われている。
日本国内でも、テゼの歌を用いた"黙想と祈りの集い"が、関東・関西ほか各地の教会で、教派を超えたエキュメニカルな祈りの集いとして行われており、その集いの様子は、公式ブログやユーチューブで知ることができる。
また昨年11月には、『テゼ 巡礼者の覚書』(一麦出版社)も出版された。
■ 2014年神戸栄光教会でのブラザー・ギランのメッセージ
再びこの神戸で一つに集まることができたことを、私たちは共に神に感謝したいと思います。会場となった神戸栄光教会の野田牧師や他の先生方のホスピタリティをも神に感謝いたします。今晩に備えて、いろんな形で準備に携わってくださった方々がたくさんいらっしゃることと思います。私のいろんな提案を聞き入れながら、準備の責任を担ってくださった打樋牧師のことも神に感謝します。今晩の集いの準備に関わってくださった方の中には、お父さん、息子さん、お孫さんと3世代に亘って共に関わってくださったご家族がおられます。これは、テゼの精神(スピリット)をよく表していると思います。
この神戸栄光教会は長い歴史があります。それは痛みの歴史でした。1995年の阪神淡路大震災で会堂が全壊し、「復活のしるし」のように美しく再建されました。この数年、この神戸で「信頼の巡礼」である教派を超えた祈りの集いがいろいろな場所で開かれてきました。カトリック六甲教会から始まり、カトリック神戸中央教会、そして去年は日本聖公会の芦屋聖マルコ教会。今回は日本基督教団の神戸栄光教会で開催されています。
この巡礼に、私たちはいろいろなキリスト教の伝統から集っています。この一致のしるしは、私たちテゼ共同体にとって、そしてわたしにとっても、とても意味のあるものです。というのも、私たちは来年2015年に創立者のブラザー・ロジェが最初に、フランスのテゼ村を訪れたことを記念して、お祝いをすることになっています。これは75周年の記念になりますが、つまりそれが1940年、第二次世界大戦が始まる頃のことであったということです。
スイスの改革派教会の牧師の息子であったブラザー・ロジェは当時25歳でした。暴力と憎しみの時代に、この若者は問いました。「自分たちに何ができるだろうか」と「キリストを愛する全ての人々の交わり(コミュニオン)を目に見えるものにできたなら、和解の種を蒔くことになるのではないか。希望の小さなしるしになるのではないか」と。
ブラザー・ロジェが最初にテゼ村を訪れたときには一人でしたが、現在は30の異なる国から文化や教派もさまざまな約100人のブラザーがいます。私たちブラザーは日々、互いに和解を生きるように目指しています。キリストの愛に生きようとする私たちブラザーが交わり(コミュニオン)をどのように目に見えるものとすることができるか模索しています。「交わり(コミュニオン)を生きる」というのは美しい言葉ですが、どのようにして日々それを具体化していけるのでしょうか。
交わりを生きるために、私たちは来る日も来る日も、つまり1年365日、1日3回、「和解の教会」と名付けられた聖堂に集います。これが、キリストと共に和解を生きる源泉です。
何万人もの若者がこの小さな村、小さな共同体を訪れますが、私たちはそうした若者たちと交わり(コミュニオン)への情熱を分かち合っています。若者たちと共に祈ることができるように、祈りの方法を単純なものにする必要がありました。そのために、今晩歌うような単純な歌を作曲し始めました。単純な言葉を用いていますが、これらは全て聖書から取られたものです(実際は、全てではないですね。一つは聖アウグスティヌス、もう一つは十字架の聖ヨハネの言葉から取られています)。
何度も繰り返すことで、言葉は心の深いところを貫きます。神が、私たちの心に、その言葉を語り掛けてくるようになります。そして沈黙では、神の言葉に耳を傾けます。メインとなる聖書朗読の後に、長い沈黙の時間があるのはそのためです。この沈黙が、私たち自身を差し出し、私たちの心配、期待、痛み、そして希望をゆだねていく場です。
今晩の集いのために選んだ聖書箇所は、パウロのコリントの信徒の手紙の第一の手紙からです。神は目に見えませんが、キリストを通して神は目に見えるものとなりました。少なくともキリストに出会った人々、キリストを見て、食事を共にし、彼に触れた人々にとっては。今では私たちにとって、キリストも目に見えないものです。しかし、私たちキリストの体である教会を通して、キリストの現存を体験することができます。
今晩の聖書箇所の最後の文は「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」というものです。パウロはコリントという街のキリスト者たちに向けて書き送りました。当時のコリントの住民が、どれくらいの人数だったのか分かりませんが、おそらく5万人、8万人ぐらいでしょうか。
最初のコリントの共同体の人数は、たぶん50人くらいだったのではないでしょうか。そのうちの誰かの家に集まっていたということですから。パウロはその人たち全員に宛てて、「あなたがたはキリストの体である」と書き送ったのです。あなたがたと出会う人々は、キリストと出会うのだと。キリストは、あなたがたの内におられ、あなたがたを通して、あなたがたの街におられるのだと。
その体には、一人ひとりの多様性があります。手は足ではなく、足は腕ではありません。私たちは皆それぞれ違いがあります。しかし、多様性というのは、一つであること、一致していることと反対のことではなく、矛盾することでもありません。一つの体で、さまざまな部分が体を生かすためにともに働いています。
パウロは「あなたがたは体のようなものだ」と言ったのではなく、「あなたがたは体である」と書きました。つまり、キリストが私たちの命であり、他の人々のために、キリストが私たちの内に生きておられるということです。体のそれぞれの部分が一つの体に属しているように、私たちも互いに属しあっています。
このことは、私たちの共同体、教会、小教区にとって、世界的な教会コミュニティーにとって、どのような意味を持つのでしょうか。交わり(コミュニオン)を何よりも大切なこととするということです。
(それぞれの教会は、)強い信仰を持つことができるでしょう。とても誠実な生き方をすることができるでしょう。生き生きと活動をすることができるでしょう。これらは確かに、聖霊が現存しておられることのしるしです。しかし、私たちがひとつに結び付くとき、キリストの現存を、福音のよき知らせをはっきりと伝えることができます。
コリントの信徒への手紙で、祈りの中で読まれる箇所に続けて、パウロは最も美しい愛についての文章を書き記しています。「キリストの体」と「愛」という2つのテーマは、互いに光を照らしあっているようです。
愛というのは、単なる共感にとどまらず、それ以上のものです。互いに興味を持ったり、互いを気にかけたりすること以上のものです。愛とは、互いが属しあっているということを発見することです。互いを必要としてはじめて、私たちは完成されるのです。私たちは、一つとされたときに、そのようなアイデンティティーに気付きます。
つまり、もはやお互いに比較しあったり、競争したりする必要がないのです。相手が自分の人生の一部であることに気付くのです。そのとき、私たちは神の輝きを、神さまの恵みを垣間見ます。誰も私たちから取り去ることのできない平安と喜びを体験するのです。
それでは、この黙想的な祈りのときに一緒に入っていきましょう。神さまがわたしたちに語りかけておられることにともに耳を傾けましょう。「あなたは私のもの。恐れることはない。わたしはあなたを知っている。そして、わたしはあなたを愛している。