以下は、8月15日に日本基督教団埼玉和光教会で行なわれた「2014年 平和を求める8・15集会」(日本基督教団埼玉地区社会委員会主催)における、稲正樹・国際基督教大学教授(所沢みくに教会会員)による講演の主な内容とそのレジュメからの転載(稲教授からの承諾済)。
◇
昨年の秋から今年の8月に至るまでどういうことがあったのかということですけれども、思い起こしてみますと、特定秘密保護法という法律が昨年作られました。そしてその後12月になりまして、日本の政府は国家安全保障戦略というものを発表しております。さらに新防衛大綱、あるいは中期防の策定、あるいは日本版の国家安全保障会議(NSC)の設置、あるいは武器輸出三原則、これまで日本は武器を造ってそれを商売の道具にしないという大事な原則がありましたけれども、それを撤廃し、そして安保法制懇の答申を受けまして、この7月1日に自衛隊の武力行使、そして武器使用に対する憲法的制約の撤廃の閣議決定がなされました。
これらの昨年の秋から今年の7月に至るまでの一連の動きを見てみますと、私は今の政権が世界に対して非常にはっきりとしたメッセージを送っているというような思いがいたします。それは、この大日本帝国の侵略戦争の加害の結果として、また私たち日本の国民の未曾有の国民的な敗戦の被害の結果として、軍事力を自制してまいりました戦後日本が、69年ぶりにこの軍事力の自制を解き放とうとしているメッセージ。このメッセージを「戦後レジームからの脱却」とか「強い日本を取り戻す」という言葉で言われておりますけれども、そのメッセージを世界に対していま送っているのではないかというふうに思います(君島東彦「東アジア平和秩序への道筋―ミリタリズムを批判抑制する力」渡辺治・山形英郎・浦田一郎・君島東彦・小沢隆一『集団的自衛権容認を批判する』別冊法学セミナー、日本評論社、2014年8月の指摘)。
きょうのサブタイトルにございます「戦争をする国づくり」ということですけれども、ここでその「戦争をする国づくり」、現在の安倍政権の改憲、もしくは軍事大国化の構造の全体像を少しお話させていただきたいと思います(以下は、渡辺治「安倍政権の改憲・軍事大国化構想の中の集団的自衛権」前出『集団的自衛権容認を批判する』による)。
第1点は、憲法改正ではなくて解釈を変えることによりまして、内閣の政府による憲法解釈を変えることによりまして、自衛隊の海外における武力行使を合憲化しようということが構想されております。安倍政権はこの解釈改憲によりまして、あらゆる想定される事態で、自衛隊が米軍と共同で、あるいは単独で出兵して武力行使できる体制を作ろうとしております。これは長い間かかって、70年近くかかって、この日本の政権が今なお達成できていない課題を完成させるということだろうというふうに思います。
安倍政権はこの解釈改憲によりまして、これからお話します3つの場合のいずれにおいても自衛隊が武力行使できるようにしていくということを目論んでいるように思われます。
第1点は、後で詳しく申し上げますように、集団的自衛権の行使による海外における武力の行使ということであります。この第1の場合は、集団的自衛権の行使を容認するように政府の憲法解釈を変更しまして、自衛隊の海外での武力行使を可能とすることであります。仮に朝鮮半島で戦争が起こった場合、朝鮮半島有事に際して、アメリカは韓国との軍事同盟条約に基づきまして集団的自衛権を行使しまして朝鮮半島に侵攻いたしますけれども、日本の自衛隊はアメリカに対する集団的自衛権の行使として朝鮮半島に出兵するということになります。
第2は、これは集団安全保障に基づく武力行使ということであります。日本が求められていますのは1番目の場合だけではありません。1990年にイラクがクウェートに侵攻いたしましたけれども、アメリカをはじめとした多国籍軍はイラクのクウェート侵攻に対して今度はイラクに侵攻いたしました。これは集団安全保障措置を名目とする出兵でありました。当時もアメリカは日本にイラクへの出兵を求めましたけれども、日本は行かなかった、あるいは行けなかった。こうした場合、自衛隊が出動するとしたら、これは集団的自衛権の行使ではなくて、集団安全保障に基づく出兵という名目になります。安倍政権はこのような場合にも自衛隊の派兵を可能にするということを目指しております。
第3番目は、自国への武力行使に至らない段階における自衛隊の出動、あるいは武力行使ということでありまして、これは今言われているグレーゾーン事態における自衛隊の出動であります。これまでの政府解釈で自衛隊の武力行使を認められる事態はただ一つでありまして、それは自国に対する武力攻撃が行われた時であります。ところが政府は現在、他国が武力行使とは言えないような侵害を行う、そういう危険性が高まっているというふうに宣伝しております。尖閣諸島への武装漁民の上陸などの危険が起こるだろうというふうに言っております。こうした事態では他国による武力攻撃とは言えない。自衛隊は警察権の行使か海上警備出動としての出動しか認められておりませんけれども、これでは武力行使が限定されていって有効に対処できない。したがってこのようなグレーゾーンでの武力行使も狙われているということになります。
そして、武力行使と一体化した活動ということの禁止を排除していくということでありますけれども、これは現在の政府解釈の中で武力行使と一体化した活動はできないという、そういう解釈を廃棄しようとしております。これは、自衛隊は海外で武力行使ができないという制約の一環として、たとえ武力行使はしなくても米軍や多国籍軍が戦闘している地域に自衛隊を派遣して後方支援をするような活動はできないということを明確化したものでございますけれども、これもなくしたいというふうに言っております。
このような、現在進められている安倍政権の解釈見直しの狙いは何でしょうか?それは、アメリカの要請に応えることにとどまらず、政府が必要と判断した時にはいつでも自衛隊の派兵と武力行使の自由を獲得するということでありまして、自衛隊を政治や政策の行使の道具として活用できるようにしようということであります。戦後日本においては、今日の演題にございますように、平和主義の皆様のために、憲法上の制限のために、政治家の口上の手段として軍事力を使うことができなかったわけでありますけれども、それを変更しようというふうにしております。これが第1点目であります。
第2点目は、自衛隊の外征軍化、つまり外国に行って、そして外国に自衛隊を出兵していくという、それは防衛計画の昨年の12月の大綱の再改定で明確であります。安倍政権は、いま申し上げましたように、自衛隊の海外における武力行使の自由を獲得すると同時に、現実に自衛隊が海外で米軍と共同作戦を行ったり、武力行使をできるように、自衛隊の編成や装備を海外派兵用に変えるということも大きな課題として考えております。実は憲法の制約の下で自衛隊はその装備や編成においても重大な制約を受けておりました。それは自衛のための必要最小限度の実力という制約から、大量破壊兵器などもっぱら攻撃用の兵器を持たないという制約でございましたけれども、そのような制約を取り払って米軍との共同作戦に耐える軍隊にするということで、昨年の12月17日に防衛計画の大綱を現政権は改定いたしました。
それは前民主党の菅政権の時代にすでに大綱は改定されておりましたけれども、それをさらに改定したということで、その目玉は2つということで、解釈改憲に合わせて自衛隊を海外侵攻部隊、侵攻するための軍隊に模様替えするということでございました。それは海兵隊を作るということであります。自衛隊にも海外侵攻用の殴り込み部隊としての海兵隊を作る。どの大国も陸海空軍とは別に海外侵攻の先兵として陸海空の装備をフルセットでもった海兵隊をもっております。ところが日本の自衛隊はもっておりませんでした。それを中国軍の動向、あるいは尖閣への行動を口実に作ろうというものであります。
このような海兵隊を自衛隊の中に作っていくということと、もう1点は、敵基地の攻撃能力の獲得ということであります。北朝鮮の弾道ミサイル攻撃への対処を口実にして自民党の提言が昨年6月に出されておりますけれども、このように言っております。「従来から法理上は可能とされてきた自衛隊による『策源地攻撃能力』の保持について、周辺国の核兵器・弾道ミサイル等の開発・配備状況も踏まえながら、検討を開始し、速やかに結論を得る」
策源地というのはつまり基地ということで、やられる前に先に相手の基地をやっつけてしまえと、そのような能力を自衛隊は獲得するということが、この防衛計画の大綱の中で明らかにされております。
そして3番目には、日本版のNSCといわれる国家安全保障戦略の司令塔ができました。これは戦後初めて安保や外交や戦争の司令部として国家安全保障会議を設置しまして、現在67名の事務局員がそこに配備されております。戦後日本で安保外交の司令塔や国家安全保障の戦略が策定されなかった理由は2つあると思います。
1つは、戦後日本において、保守政権はもっぱらアメリカに従属しまして、アメリカの世界戦略を受け入れ、そして自国の経済発展に専念するということで、復興を図ってきたわけです。外交においても、国連における態度においても、アメリカの方針への従属・依存が基本であったために、自前の戦略司令部は必要なかった。
第2の理由は、戦後日本においては、独自の戦略を実行する力としての軍事力の行使を縛られていたために、国家戦略そのものが建てられないというふうに考えていたからであります。安倍政権がこの国家安全保障会議を設置し、国家戦略の策定に動いたということは、このような戦後日本の針路の大きな方向転換を意味しております。
そして最後に、以上述べたことは解釈改憲が自衛隊の新しい外征軍化、あるいは国家安全保障会議の設置ということでありますけれども、今日のお話の主要なテーマの一つとして、このような解釈改憲にとどまらないで明文改憲を目指しているということであります。この解釈改憲を先行させながら憲法を改正、明文改憲を現政権があきらめていない理由は3つあるように思います。
第1点は、一つは自衛隊を米軍とともに共同行動させるまでは解釈改憲で可能であったとしましても、いざ日本が戦争に参加するということになりますと、日本国憲法の全ての体系がそれに立ちはだかるということであります。したがって、実際に戦争をしていく、そういう国にするためには、日本国憲法の全てを全く別のものに、現在の憲法をスクラップして、こわして、全く新しい憲法を作るということが必要になってきます。
2番目は、あとで申し上げますけれども、軍事大国としての完成は、非常事態規定を始めとした、憲法の全面的改変が不可避というふうに考えられているからであります。
そして第3は、いま政府が進めている解釈改憲に対する強い反対論、私たちの運動の下で、政府は集団的自衛権の行使を始め、当初政府が目論んでいた憲法解釈の全面的な改変はできなくなりつつありまして、再び解釈改憲の限界に悩まされるということが必至であるからであります。
いざ自衛隊が海外において米軍と共同作戦に入ったということを仮定したとしますと、実は自衛隊員はかつて一人の他国民を殺したことはありません。戦場に投入されればそのような自衛隊は米軍や他国の軍隊以上に命令に従うことが難しくなりますし、また隊員の行動でもさまざまな逡巡が起こるだろうというふうに思われます。戦前の日本軍も米軍も兵士たちの動揺を鎮圧し兵士たちを戦場に縛り付けるために軍法会議やさまざまな軍に関する法律を持っておりますけれども、日本国憲法はそれを否定しております。
こういうことで、3つぐらいの理由で2012年に自民党が作った日本国憲法改正草案がまさしくそうした日本の戦争する国づくりに適合した憲法構想であったと思われます。
そこで今日のお話は3つテーマを絞って問題提起をしてみたいと思いますけれども、第1点は、昨年の12月にできました特定秘密保護法というものはどういう意味を持っていたのかということが第1点であります。
2点目は、憲法解釈で十分な解釈が達成できない場合、憲法改正が構想されているということでありますけれども、それはどのような内容を持っているのか?自民党の野党時代に発表した憲法改正草案の内容について一緒に考えてみたいと思います。
3点目はこの7月1日の集団的自衛権の行使容認の憲法解釈の閣議決定であります。お手元のレジュメをご覧になっていただきたいと思いますけれども、第1点目の特定秘密保護法ということにつきましてですけれども、昨年にこの法律が作られる時に刑法の研究者たちがさまざまな反対論・反対の声明を出しております。そこに書かれておりますように、この法律は「戦争に備える軍事立法としての性格」を持っている。「この点を直視することが重要である」。「軍事立法としての性格」をもっていて、これは「九条改憲と直結し、憲法の平和主義を否定する」ものである、というふうにいっています。
2点目はいま申し上げましたように、この法律は国家安全保障基本法案、あるいは国家安全保障会議設置法案―当時そのような法案がありましたけれども―それと不可分一体のものと位置づけ、そして一方で96条の改憲を含む明文改憲の準備を進めながら、それ以前にもこれらの法律の成立によって9条の実質的な改憲を図ろうとしている。
3番目に、歴史的に見ましても、軍事機密を中心とする国家秘密保護の強化は、軍事力の再編成の節目に登場してきている。このような法律の、秘密保護法の制定は明文改憲であれ解釈改憲であれ9条の改憲と集団的自衛権の行使の容認と不可分一体のものとして構想されているということであります。
集団的自衛権の行使を認めるという方向へ舵を切っているわけでありますけれども、これによりまして自衛隊はこれまでの専守防衛の原則を投げ捨てまして、日本が攻撃されていない場合でも海外に展開し米軍などと肩を並べて戦闘を行う軍隊へ大きく変化するようであります。
日本は69年間、平和国家、戦争をしない国家、一人の自衛隊員も死んでおりませんし、自衛隊員は一人の他国民も殺してきませんでした。そして武器も輸出してきませんでした。そのようなことから、戦争をする国家へと大きく変わろうとしているということであります。
同じような指摘は、その次にもう一つ、憲法・メディア法研究者の声明というのもそこに挙げておきましたけども、時間の関係でスキップ(飛ば)させていただければというふうに思います。
IIをご覧になってください。この秘密保護法というのはどうしてこのようなものができてしまったのかということですけれども、そこに指摘されておりますように、アメリカ軍と関係を強化していくための軍事立法です。防衛に関する秘密、テロに対する秘密等、あるいは外交に関する秘密、そのような秘密を、何が秘密であるかも秘密であってわからない。当初、10年とか20年とか言われておりましたけれども、30年も秘密にすることができる。場合によっては60年以上も秘密にすることができる。あるいは未来永劫に秘密にすることもできるというような、私たち国民主権の憲法の下でこのような法律ができるということは考えてもこなかったわけでありますけれども、この法律が作られてしまった。そこに指摘してありますように、これはGSOMIA(ジーソミア)と呼ばれるものが基になっておりまして、このGSOMIAと申しますのは、軍事情報包括保護協定と呼ばれるものでありますけれども、アメリカが各国と結んでいる秘密軍事情報の保護に関する二国間協定の総称でありまして、アメリカから相手国に提供される秘密軍事情報と相手国からアメリカに提供される秘密軍事情報が保護の対象になってくるということであります。
これは日本とアメリカの間のいわゆる2プラス2と言われているその大臣同士の会議でこのようなことが規定されまして、そこからこの秘密保護法というものが立法化されてきているのではないかというふうに思います。
IIIのほうにまいります。外務省はホームページがございまして、そこに「日本の安全保障政策」という言葉が並んでおります。その項目といたしまして、先ほどいろいろ申し上げましたように、国家安全保障会議の設置、国家安全保障戦略の策定、防衛計画の大綱の見直し、そして安保法制、防衛装備品の海外移転に関する基準、こういったいくつかの項目を「日本として、国際協調主義に基づく『積極的平和主義』の立場から、同盟国である米国をはじめとする関係国と連携しながら、地域および国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に寄与していかなければならないとの国家安全保障の基本理念・考えに基づくもの」というふうに述べています。この「積極的平和主義」、英語ではproactiveという言葉が使われていますけれども、これは、実は戦争を進めるための国づくりの諸々の政策に他ならないものではないかというふうに思います。こうしたものがここでは国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の具体例として掲げられております。
ジョージ・オーウェルの小説に『1984年』という近未来小説が戦後すぐ作られましたけれども、その中で「戦争は平和である」(War is Peace)という党のスローガンが猛威を振るって、半永久的に戦争を続けるための政府機関がこの『1984年』の国においては平和省と呼ばれているということを指摘しております。私はこの「積極的平和主義」という言葉を見聞しまして、あのジョージ・オーウェルが書いた『1984年』の世界がこの2014年の日本国に登場しているというふうに思います。
IV番目。改憲問題を二つ目にお話したいと思ってまいりましたけれども、改憲問題との関連で一番はっきりしておりますのは、明文改憲による方法であります。この秘密保護法が集団的自衛権のいわば露払いとして立法化され、その究極目標は明文改憲による日本国憲法の廃棄にあるということは自明でありますけれども、実はその憲法改正手続きに基づく日本国憲法の廃棄による全く新しい憲法の制定というその展望は、依然として、日本の支配層にとってはとてつもない難題として意識されているのではないだろうかというふうに思っております。(レジュメの)注(6)に、渡辺治さんという憲法・政治学の方が、このように言っております。「安倍政権は、改憲は国民的な容易ならざる事業であり、65年間実現したことがないこと、国会の中での大規模な連合と国民の過半数の合意を必要とする大事業であることを十分自覚していると思われる」というふうに思っています。
このように、改憲というのは非常に困難な道だということは十分自覚していると思われますけれども、そして安倍政権を始めとする日本の支配層が、その明文改憲の先に構想している日本の将来像というのはどのようなものかと思います。それは、日米安保体制の規定するアメリカの従属国家。ガヴァン・マコーマックという、オーストラリアの歴史家は、ある本を書きました。そこで日本のことを“client state” 、アメリカにつき従っている国であると、独立した国家ではないということをはっきり述べておりますけれども、そのような、全体的には「従属国家化の中で、日本の軍事大国化を極限まで追求」していく「というプチ帝国主義国家の野望ではないだろうか」というふうに考えております。
自民党の「日本国憲法改正草案」(2012年4月に発表されたもの)の問題点をここでご紹介させていただきたいと思います。今日のお話は、ここに持ってまいりましたけれども、伊藤真さんという弁護士さんが書いている『憲法は誰のもの?―自民党改憲案の検証』という岩波ブックレットでありますけれども、それを紹介させていただいて、私の考えも若干付け加えさせていただくというふうにしたいと思います。
まず、伊藤さんは、立憲主義という考え方が今の憲法の基本にあるということを述べております。この立憲主義というのはどういう意味かというと、憲法は何のために存在しているのか?それは「すべての人々を個人として尊重するために憲法を定め」ている。その憲法を「最高法規として国家権力を制限し」て「人権保障をはか」っていく、こういう考え方、こういう仕組み。この立憲主義というものを否定し放棄していくというのがこの自民党のものではないだろうかということです。
今日はそのお話と、もう一つは9条でありますので、その諸々の解釈改憲の将来目指されている、どのような戦争ができる国になっていくのかという、平和主義の点を2つ述べさせていただきたいと思います。
まずその立憲主義のところでありますけれども、レジュメのV①イ.に前文「すべて国民は個人として尊重される」(日本国憲法13条)と書きましたけど、これは現在の憲法です。私たちはキリスト教の礼拝を捧げましたけれども、私たちイエスを信じる者が、一人々々の人間が神様から創られたものであるという、こういう考え方が憲法においては一人々々の人間がそれぞれ価値を持っている。個人として尊重されていて、一人々々の個人を国家は最大限尊重しなければならない。こういう考え方が日本国憲法のベースにある考え方で、非常に普遍的な、キリスト教的な考え方でもあると思いますけれども、それが現在の憲法でありますけれども、それをカッコに入れていただきまして、それに対してこの構想されている新しい草案の前文では、そのような考え方を否定しているということでございます。
そこに草案の前文をざっと挙げさせていただきました。一回読みますと、日本国憲法の現在の前文と非常に大きな違いがあります。それは一言で言いますと、この普遍的なものではなくて、日本というものの独自性を追求していくという、普遍的なものを否定していくということでありますけれども、立憲主義というところからこれを見直してみるとどういうふうに考えられるかということでありますけれども、まず最初の段落であります。その草案の第一段落では、日本が「長い歴史と固有の文化」を持って、何と「天皇を戴く国家であ」るということを宣言しております。「天皇を戴く国家であ」ると。
しかし立憲主義の憲法というのは、その中に特定の歴史・文化・伝統を示さないものであります。なぜかといいますと、この歴史・文化・伝統ということについては、価値観や評価が個々の人間で異なるために、それを憲法の中に書いてしまうと、国民の間に対立が生じる。その国民統合の機能は果たさなくなるということであります。
したがいまして、立憲主義の考え方からしますと、共有できる唯一の価値は何なのか?と。それは人権保障と、そしてこの憲法によって政治を縛っていくという立憲主義の考え方でありますけれども、この前文の提案の第一段落で言われている歴史・文化・伝統などで国の形を示すという草案は、その根本から立憲主義とは違うというふうに思われます。
第2段落を見ていただきたいと思います。スラッシュで3行目の後でありますけれども、ここでは平和的生存権というものを、平和に生きる権利という、今の憲法ではそういうことを述べておりますけれども、それを削除している点に特徴がありますけれども、非常に大きな違いは、現在の日本国憲法では、「日本国民は」というところから始まっているんですけれども、ここでは「日本国は」という言葉から始まっております。この「国民は」ということではなくて「日本国は」というところから、個人よりも国家を優先するというような非立憲的な姿勢が表れているというふうに思われます。
そして3番目の段落を見ていただきたいと思います。その3番目の段落は、そこに書かれていることでありますけれども、「基本的人権を尊重する」という言葉が出てまいりますけれども、「基本的人権を尊重する」ということを、国ではなくて国民に求めております。人権尊重を義務付けられるのは国であって国民ではないわけですけれども、ここでは国民に求めている、ということになりますが、これは立憲主義に逆行するというふうに思います。
「和を尊び、・・・互いに助け合」うということを、国民に求めていますけれども、これは個人のモラルと国民の間の議論に委ねるべき問題であります。立憲主義国家はそのような価値に中立であるべきであります。
そして第4段では、「我々は、・・・国を成長させる」ということを求めておりますけれども、ここにおきましても、個より国家優先の発想を見ることができます。
最後のところをご覧ください。第5番目の段落でありますけれども、憲法制定の目的として「国家を末永く子孫に継承するため」に、「ここに、この憲法を制定する。」このようにしている点も国家優先の発想でありまして、個人の尊重を究極の価値とする立憲主義とは異質の立場ということになります。
そして、いま申し上げましたのは前文についてなんでありますけれども、次のロ. の「憲法尊重擁護義務」ということなんですけども、これは現在、日本国憲法では人権を守るために国家権力を縛るための法が憲法でありますから、現行憲法では公務員だけに憲法尊重擁護義務を課しています。公務員は公権力を行使する側にいるために人権を侵害する恐れがありますので、特に憲法を守らなければならないとされております。その反面、現在の日本国憲法では、憲法を守る、憲法を尊重するという義務を国民に課していません。国民はむしろ憲法を守らせる側にいますから、そういうふうになっているわけですね。国民は憲法を守らせる側であって、憲法を守る側ではないというのが立憲主義でありますけれども、ところが草案はここに国民を憲法を尊重擁護する者の一人として追加しております。立憲主義を転換させ、国家が国民に憲法を守らせるものにしている。自民党の政治家が自分たちの望む国を作っていくために、国民を従わせるための道具としての憲法を作ろうとしているということになります。
そしてハ. の「発議要件の緩和」ということでありますけれども、これはご承知のように、昨年の夏の参議院選挙の前に大きな議論になりました。憲法改正に関する国会の発議要件を現行憲法の3分の2から通常の法律案と同じように過半数に緩和するということが提案されておりましたけれども、そのことがこの草案の中にも入っております。
この過半数ということになりますと、これも権力者が望む方向に憲法を変えるということが簡単にできるようになってしまいます。発議要件を権力者の発案で緩和できるならば、それはもはや立憲主義ではありません。憲法によって縛られているはずの当事者が、例えば集団的自衛権を認めたい、軍隊を持ちたい、そのやりたいことができないからといって、改正のルールを緩めることなどは本末転倒であろうというふうに思います。
憲法改正権は、憲法制定権力を持つ国民にのみあります。にもかかわらず、権力の行使方法を指示・命令する私たちの側がそれを求めてもいないのに、指示・命令を受けて制限される政治家のほうがその内容を自由に変えるということができるのであれば、指示・命令は無意味になるのではないだろうか。
憲法は国会が国民の代表機関であることに鑑みまして、国会に憲法改正の発議権を与えました。しかしそれは改正権まで与えたわけではありませんし、憲法改正をリードする役割を認められたわけでもないということであります。改正権はあくまで憲法制定権力を持つ国民が持っておりまして、その改正のリーダーシップをとる役割も国民にあるということですね。まして政権担当者として統治権の中枢を担っている内閣が憲法改正をリードしていくということなど許されないというふうに思います。憲法について国民に議論してもらう機会を国会や内閣の側から提供するというその発想自体、憲法制定権力の主体を誤解しているということになります。
二. のところで「憲法を制定するのは誰か」ということなんですけども、これはいま憲法制定権力という、ちょっと硬い言葉で申し上げましたけれども、要するに憲法を作る力ということであります。この憲法を作る力が国民にあるという考え方は、18世紀末の近代市民革命のアメリカやフランスにおきまして、国民主権を基礎づけて近代立憲主義の憲法を制定する推進力として大きな役割を演じました。ロックのいう自然権の思想は、人は生まれながらに生命・自由・財産権を持っている、つまり自然権を持っていて、それを守るために市民が契約によって政府を作り上げたというものでありました。この契約によって政府を作り上げる力が憲法制定権力、憲法を作る力というものであります。ただ、この憲法制定権力は権力でありますので、濫用される恐れがありますので、そこで立憲主義の思想に従って、それを、この憲法を作る力を行使するルールを憲法に定めて、憲法を作る力の濫用を防いだということであります。それがこの憲法改正手続きの規定ということになります。ですから、憲法改正で認められるのは、憲法の個別条項の改正でありまして、憲法の基本価値の変更や新しい憲法の制定ではありません。
ところが、自民党は、この発議要件を先行して緩和し、次いで他の憲法条項を次々と変えていくという意図を持って、つまり二段構えになっておりまして、そしてまず、何かこう禁じ手みたいですけれども、憲法改正手続きがあって、その改正手続きを改正しやすいように改正してしまうというわけです。そうすると、次から次に改正ができてしまう。
今でも投票に行く人はそんなに多くありませんので、もう投票に行かなくなったら「また憲法改正か」と。投票所に行くよりも、暑いし、家でゆっくりしたほうがいいということになって、国民が憲法改正の問題に対して関心を失っていく。そのようなところに、まず憲法改正手続きを改正してしまえというのがこの考え方ですね。
こういうようなことから考えますと、この発議要件の緩和とか、憲法を制定するのは誰かということも大きな問題でありますけれども、ちょっと時間の関係でホ.を飛ばさせていただきまして、天皇制について一点お話したいと思います。「国民主権と天皇制」。先ほど前文のところで、そこに「国民統合の象徴である天皇を戴く国家」という、非常にびっくりするような言葉が出てまいります。どのように考えているのかということなんですけれども、現在の憲法の国民主権と象徴天皇制は、権力の暴走を防ぐということを最大の目標としておりまして、戦前の日本では国家神道が国民生活全体を支配しておりました。そこでは天皇が現人神として絶対化されました。その地位は天照大神の意思、つまり神勅に基づくものとされておりまして、その権威に基づいて天皇は統治権の総攬者、つまり国家権力の全ての作用を一手にまとめる、そういう立場にあったわけですね。
このような天皇主権の下の日本の国家体制というものは、様々な弊害をもたらしました。最たるものは、国家権力を暴走させて戦争を引き起こしてしまったということであります。天皇の統帥大権は、議会による関与はもちろん、国務大臣による輔弼(ほひつ)なしに行うことができて、軍部は天皇の名の下に直接に政治に介入して国家神道と結びついて私たちの全ての生活を支配しながら戦争に突入していったわけです。
そこで、戦争という国家権力の暴走に歯止めをかけられないような仕組みは立憲主義とはちょうど正反対の国家システムでありまして、そこで現在の憲法では国民主権を宣言したわけです。国民主権というのは、何か難しいように聞こえますけれども、ごく常識的に、国を動かす力が天皇ではなく私たち国民にあるということでありますね。
ですから、天皇の地位は神勅ではなく、神様のわからない命令ではなく、国民の総意に基づくというふうに現在の憲法ではされております。神でなくなった天皇は、国家権力を動かす根拠を失いましたので、形式的・儀礼的な国事に関する行為しかできなくなった。そして、確かに第一条では、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ」るというふうになっておりまして、それを象徴天皇制といっておりますけれども、その意味は学校教育の中で子どもたちにいま教えられているのが、象徴天皇というのは非常に大切だから、様々な場面において天皇が働く、そういう役割を大きくしていこうということが学校教育の中で教えられておりますけれども、私たち憲法研究者は、この象徴天皇制というのが、日本の象徴としての役割を天皇が積極的に果たしていくということではなくて、象徴としての非政治的な行為しかできないという意味で、この象徴天皇制を考えております。
つまり、私たち国民が政治の主人公であって、私たち国民が認める限りにおいて天皇制が許されているというような仕組みというのが現在の憲法でありますけれども、しかしながら、この自民党の案は、草案の第一条において、天皇が象徴であるのみならず、元首(head of the state)でもあるということを明示しております。日本国は前文において「天皇を戴く国家であ」るというこの前文と第一条の天皇の元首化ということを考えてみますと、その現在の草案が考えているのは、日本の象徴は象徴にしか過ぎないということではなくて、象徴としての役割を積極的に果たしていくというような天皇像を描いているということになります。
この草案の中には、「助言と承認」という言葉に代えて、内閣の助言と承認で国事行為をするのではなくて、「進言」という言葉に代えています。この「進言」という言葉は、目上の人に対して意見を述べるということですから、内閣と天皇の関係において天皇が上である、天皇を国の頂点に位置づけるということでありますね。
例えば、私は現在の天皇は非常にリベラルで、天皇と美智子さんは一貫したある考え方の下に身を処して、さまざまな行動をしているというふうに思いますけれども、しかしあの天皇が、昨年の4月28日にあの式典(主権回復・国際社会復帰を記念する式典)に引っ張り出されて、「天皇陛下万歳」という言葉で送られて出ていった。あの出ていった時の天皇夫妻の映像は全てのテレビにおいて映されておりませんけれども、どのような想いであの4月28日の式典をあの二人は迎えていたのかということを考えていますけども、しかし、例えば次の代の天皇になって、あるいはその天皇が「尖閣諸島は日本の固有の領土なので、日本国民が力を合わせてしっかり守りぬきましょう」と、こういう発言を天皇自身がしたくなくても、何らかの式典で天皇に発言させるということも可能であるというふうに思います。戦争に進むための国民を統合できる、そういうようなものとして天皇制を位置付けていく。草案の中では国旗を日章旗、国家を君が代と定めておりまして、その日の丸・君が代の尊重義務を国民に課しております。
このような日の丸・君が代を尊重する義務が課せられるようになるというのは、今の東京や埼玉や神奈川や大阪で起こっている、学校の先生たちが非常に苦しんでおりますけれども、そのような義務を学校の先生のみならず全ての国民に課していくということになるのではないかというふうに思います。
そういう意味で、この天皇制と国民主権というのは非常に大きな問題ですけれども、時間の関係で②番目の「平和主義から『戦争ができる国』へ」というところへ大急ぎで移らせていただきたいと思います。
実は、現在の日本国憲法は、平和についてどのように考えているのかということであります。レジュメの②の「非暴力平和主義から『戦争ができる国』へ」というところの「『安全保障』の全体像」ということであります。
現在の日本国憲法は前文の中で「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ということを述べております。この「平和に生きる権利」。かなり前から日本国憲法は一国平和主義であって日本人だけが平和で豊かな生活をしていればそれでいいんだという、そういう攻撃がかけられていますけれども、現在の憲法は全くそういう考え方とは縁もゆかりもありません。どのようなことを言っているかというと、私たち日本国民は―ここがすごいところなんですけれども―「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と言っています。つまり、これは言い換えますと、単に戦争がない状態ではなくて、恐怖が―恐怖というのは戦争ですね―、欠乏というのは戦争ではないんですけれども、日常的な差別があるとか、日常的な苦しみがあるとか、そのようなものですけれども、そういうものから免れて、平和のうちに生存する権利を持っている。そのような権利を持っている世界を実現しなさいということを言っているのでありまして、ここを読みますと、先週、私が所属している所沢みくに教会で最上(光宏)先生が読んでくださったんですけども、平和をつくる人になりなさいと、イエスが、あなたたちは山上の垂訓で平和をつくる人たちになりなさいということをおっしゃっていますけれども、そのようなものとして、このような憲法を受け止めているわけです。平和に生きる権利を持っている世界をつくっていけということを述べているわけですね。一人々々を個人として尊重する。だから、一人々々の命が守られて、恐怖と欠乏におびえることなく平和に生きることができなければならない。そのことを権利としてはっきり保証しているわけですね。
そして、平和的生存権を保証するその憲法の下では、安全保障という言葉の意味を、国の安全、国家の安全ではなくて人間の安全保障としてとらえるべきであります。人間にとって最大の脅威は国家間の戦争だけではありません。環境破壊や、人権侵害や、難民や貧困など、人間の尊厳を脅かすあらゆる脅威にあるというふうにとらえまして、そして恐怖や欠乏に苦しむことなく、人として尊厳を持てる生活を実現しようという発想ですね。
これは、国連開発計画(UNDP)というところで議論されていることと全く同じ考え方で、何と70年近く前にできた日本の憲法は、国連でいま全世界の人々が議論している「平和に生きる権利」というものを保証していこうということを、憲法の中で明示していたということになります。
東日本大震災を経験した私たちは、憲法の安全保障というのも人間中心にとらえなければならないというふうに思います。そして、そのことをベースにして、ご承知のように、戦争の放棄のところで、9条を定めまして、戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認という平和主義の3原則を明示しているわけですね。
そのようなものからしますと、以上のようなところからすると、そこに書きましたように、積極的非暴力平和主義の立場を一言で言うと、現在の憲法ではとっているということになります。つまり国民を恐怖に陥れて命を脅かすような軍事力による防衛を行うのではなくて、全世界の紛争地域から恐怖と欠乏を根絶するための非暴力の手段によって積極的な活動をすることを通じて、他国から信頼され、攻められない国を作っていくという、そういう思想だと思いますね。
ところが、この草案はそのような平和をつくり出していく国から、戦争する国家にこの国を変えていこうということでありますので、第二章の憲法の章のタイトルは、「戦争の放棄」を放棄しまして「安全保障」に変えております。そして九条の二というところで「国防軍」という軍隊を創設し、交戦権の否認条項を削除しています。平和主義の3原則の中で、戦力の不保持と交戦権の否認を完全に放棄しているわけですね。そして戦争の放棄は確かに残っているわけでありますけれども、それは草案の中で定めているけれども、同時にそれは2項のところで自衛権の発動を無制限に認めておりまして、この自衛権には個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も含まれております。そして九条の二の第3項というところでは、国防軍の活動として「国際協力活動」という言葉が明記されております。名前は美しい名前が使われております。先ほどの「積極的平和主義」というのと同じで、美しい名前が使われて、「国際協力活動」ということでありますけれども、それは、軍を日本の外に出して、集団的自衛権でない場合においても、様々な場面において、多国籍軍とかPKFとかそういう場合において新しい国防軍がそのような活動をしていくということになります。
このように、同盟の維持、国際協力の名目で「戦争ができる国」に転換している。そして平和的生存権を削除しているということであります。これは、国防軍の創設と相まって、安全保障の概念が人間の安全保障から国家の安全保障にいわば退化しているということを意味しているわけですね。もちろん、その憲法の積極的非暴力平和主義も消え去っているということになります。
そこで、レジュメのロ.の集団的自衛権の問題でありますけれども、草案では自衛権の発動を認めております。この点につきまして、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思いますけど、自民党のホームページを見ていただきますと、そこにQ&Aというものが載っておりますので、70ページぐらいの冊子なんですけれども、PDFでダウンロードすることができます。その中で、Q&A、この草案を作った心は、いわばこういうことだよっていう解説書でありますけれども、その中でこう言っております。「これは・・・主権国家の自然権(当然持っている権利)としての『自衛権』をここで明示的に規定したもので」あって、「この『自衛権』には、国連憲章が認めている個別的自衛権や集団的自衛権が含まれていることは、言うまでもありません」と言っております。
集団的自衛権というのは、これは同盟国が攻撃された場合には、自国への攻撃が全くなくても、相手の国に反撃できるということであります。この自衛権の中に個別的自衛権が含まれるとしても、当然、このQ&Aが言っているように、集団的自衛権を含むと言えるんだろうか?確かに、国連憲章は51条というところで集団的自衛権を認めております。しかしそれは、1945年に国連ができた時に明文化された新しい概念でありまして、それ以前は国際法上認められていなかったわけであります。したがって、ここで少し皆さんと一緒に考えてみたいと思うのは、伊藤弁護士の本を借りてでありますけれども、自民党は個別的自衛権のみならず集団的自衛権も当然認められると言っておりますけれども、実質的にそういうことが言えるのか、実質的にこの問題を考えてみたいというふうに思います。
集団的自衛権は前々からアメリカが日本に要求していたものであります。このアメリカは世界の警察としてあちこちで戦争を起こして、その被害も甚大でありますね。アメリカでいま起こっていることは何なのかというとですね、兵士のなり手が不足しているというふうに指摘されております。軍隊では、人間は人を殺すようにつくられておりませんので、人を殺すことができない人間を、人を殺すことができるような人間に変えていかなければならない。そのための訓練をしている。条件反射的に人を殺す訓練をしているわけですね。そして戦地に送られて精神的なダメージを受けて帰還する。そうするともはや普通の生活ができなくなって、兵士としてするプログラムはあるわけですけれども、その兵隊さんが戦地から帰った帰還兵を本当の人間に戻すプログラムというのは不十分であって、そういう結果、そういう人たちが社会復帰できずホームレスになったり、あるいは銃犯罪に走る原因になっているわけでありますけれども。
ここでアメリカは何のために集団的自衛権を日本に要求しているんだろうかということを考えてみますと、自国だけではなくて日本の若者にもぜひ協力してほしいという理由を持っているわけですね。イラク戦争の時、“boots on the ground”(地上に靴を履いて示せ)と、つまり陸軍を派遣しろということが言われておりましたけれども、それは金だけでなく血も流せという意味であろうというふうに思います。
そうだとしますと、集団的自衛権を認めるということは、日本の若者をアメリカ軍の傭兵に差し出すということであります。しかし、果たしてそこまでの覚悟を日本人、特に若者やその若者の親たちが持っているだろうかというふうに思います。
戦争というと、どこか軍人が遠いところでやっているというふうに考えて、自分は関わらない、自分は自衛隊員でもないので関係ないと、日本も軍隊をもって北朝鮮や中国が大きな態度をしているので軍隊を持って頑張るべきだと思いがちでありますけれども、しかし実際はどういうことかというと、生活の苦しい若者が軍隊に入って殺されたり、運良く帰還できたとしても肉体的・精神的な障害を抱えていく。自分は軍隊に行くつもりはないとしましても、一生の傷を負った親友や恋人が苦しんでいく様子を想像していただきたいというふうに思います。
今までは日本は9条がありました。朝鮮戦争も、ベトナム戦争も、湾岸戦争も、アフガニスタンの戦争も、イラク戦争に参加することも、そしてそこで殺されることも、他国の人を殺すこともありませんでした。これに対して、イギリスや韓国は、集団的自衛権を行使して参戦いたしました。韓国ではベトナム戦争に10万人の兵隊を送って、5000人の若者を失っているというふうに言われております。よく同盟国を守ることは当然の義務だと言われることがありますけれども、しかし国家の役割は何でしょうか?国家の役割は、安倍さんが言っているように不安をあおって「戦争だ、戦争だ、戦争の備えをしなければならない」ということを言うことではなくて、まず第一になすべきことは、自国民の命と財産を守ることであります。自国民を危険にさらしてまで同盟関係を優先させるべきではありません。集団的自衛権を行使するということは、日本が自らにして敵を作るということでありまして、攻撃される危険を自ら引き込むということであります。
このように国防軍をもって集団的自衛権を認めていくということは、アメリカが一方的に始めた戦争に対して大義や日本自身の利益とは無関係に日本も参加させられるようになるということを意味しています。もちろん、政治家はその時に、日本の国益を考えて参戦するかどうかはその都度検討するからそんなに心配しないでくれと、アメリカからの要請に無条件で応えるものではないと言うだろうと思います。しかし、アメリカとの同盟に傷をつけないために集団的自衛権を認めたがる政治家たちがアメリカからの要請を断るということが果たしてあるでしょうか?今は9条があるから憲法上できないと言って、これまでは断ることができたわけでありますけれども、この改正草案によれば、できるのにやらないということになりまして、まさしく日米関係は崩壊していく。そして日米関係の重要性という名の下に、アメリカからの要請にはすべて応じるということになります。
この点で、徴兵制のことについて一点触れさせていただきたいと思います。徴兵制につきましては、これは後で見ていただけたらと思いますけれども、ここに内閣官房のホームページがありますので後でご覧になっていただきたい。これは、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」の一問一答で、政府の役人たちが作ったものです。この中で、徴兵制にすることはないだろうかという質問がありまして、この役人たちは、そんなことはないというふうに太鼓判を押しておりますけれども、こういうQ&Aを作ったということは、この集団的自衛権の解釈変更に対して国民の多くから非常に心配の声が寄せられて、徴兵制になることはないだろうか、大丈夫なんだろうかという声が寄せられたからに他なりません。
実は、これは非常に簡単なことで、戦争ができる国の実態は、若者たちが死にまして、軍隊への志願者数が足りなくなれば、徴兵制が必要になってきます。現行憲法では、徴兵制は憲法18条の後段で「意に反する苦役」にあたるので禁止されております。さらに9条がありますので、そこでは軍隊は認められてはおりません。国防の義務もありませんので、徴兵制を認める前提はないわけですね。
これに対して、草案では確かに十八条二項で「意に反する苦役に服させられない」ということを定めておりますけれども、国防軍という軍隊を創設し、前文の、先ほど見た3番目のところで国民に国防義務を課し、さらに人権のところですべての人権は公益に反してはいけないというふうにされておりますので、志願者数が足りなければ、当然、憲法が認めた国防軍を維持する必要があって、国民にも国を守る義務があると、国防は最大の公益であると、だから徴兵制は許されると言い出すだろうというふうに思います。この草案をよく読んでいきますと、徴兵制を設けることは十分可能でありまして、その時々の政権与党の強行採決によって徴兵制は可能となっていくわけです。(続く)
■「2014年 平和を求める8・15集会」講演内容・レジュメ:(1)(2)
■「2014年 平和を求める8・15集会」講演記事