修道院で育ったアンナは、18歳で修道女となる誓願式の前に、唯一の血縁である叔母に会っておいたほうがいいと告げられる。その時まで、自分に親族がいることも知らされていなかった。都会に住む叔母のヴァンダは、姪の来訪に表情を変えず、アンナの本当の名はイーダだと教える。
「ユダヤ人の修道女ね」。ヴァンダからそう言われても、自分のことだと理解できずに戸惑う横顔。イーダはユダヤ女性に多い名前だ。なぜ名前を変えて修道院で育てられたのか、両親はどうして亡くなったのか、叔母はなぜ会いに来なかったのか。イーダには何も分からない。
修復されたキリスト像に彩色を施すシーンから映画は始まる。舞台は1962年のポーランド。修道女見習いの少女たちが像を運んで戸外に立て直す姿は、戦後の教会弾圧がようやく過ぎ去り、信仰を表明できるようになった世相を示している。ポーランドというとカトリック国の印象も強いが、非社会主義政権の成立は89年と遅かった。信仰は否定されていた。
両親の墓所に行くことを願うイーダに、ヴァンダは言う。「神は存在しないと知ることになっても?」。ヴァンダの運転する車で、二人は家族が暮らしていた村に向かう。尼僧服のイーダと、酒も煙草も途絶えないヴァンダの奇妙な旅が始まる。「あんたは聖女だものね」。酔ったヴァンダはイーダにからむ。「神は私のような女が好きなの。マグダラのマリアよ」
ポーランド人の9割がカトリックと言われるが、「隣人愛の信仰」とかけ離れた様相は戦後も続いていた。歴史にはユダヤ人憎悪の激しさを物語る複数の迫害事件が刻まれている。無論、ユダヤ人たちに同情を寄せ、彼らをかくまおうとするポーランド人もいたのだが、時代の拭いがたい偏見、貪欲、保身に走った人の姿を、映画は描き出していく。
果たしてイーダは過酷な真実に直面する。ヴァンダの過去の深い傷が明らかになり、二人は寄り添うようにもなる。しかし物語は、そうあってほしいと願う方向に進むとは限らない。ヴァンダの苦悩とイーダの混迷、それぞれの決意と選択は驚きを伴うところに向かい、見る人によって所感の分かれるものとなるはずだ。
人が本当の意味で「救われる」とはどういうことか、静かに考えさせられる。ラストシーンに流れる音楽は、バッハのBWV639「私はあなたを呼ぶ、主イエス・キリストよ」。スクリーンを通して60年代のポーランドに自らが置かれる体験をしながら、私たちは何を呼ぶべきで、何を呼びかけられているのか、耳をすませてみたい。(高嶺はる)
■『イーダ』オフィシャルサイト
http://mermaidfilms.co.jp/ida
8月2日(土)から渋谷シアター・イメージフォーラムで公開
全国で順次公開予定