ちりばめられたキリスト教の用語やイメージをいくつ探し当てられるか? そんな頭脳ゲームにも使えそうなアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』。通称『エヴァ』は、クリスチャン・ワードに溢れていることでも有名だ。言うまでもなく「エヴァンゲリオン」は「福音」を意味するギリシャ語に由来。アダムの肋骨からイブ(エヴァ)をつくる旧約聖書の設定も転用されている。
「使徒」と呼ばれる謎の敵たちにはキリスト教伝承の天使の名が付与され、戦闘後の爆発にはなぜか「光の十字架」が立ち上る。劇中で囁かれる「死海文書」と「人類補完計画」。地下で磔にされている巨人「アダム」。「三位一体」のスーパーコンピュータ“MAGI”(博士・賢者)にはそれぞれ、メルキオール(黄金)、バルタザール(乳香)、カスパー(没薬)と命名する凝りようだ。
主人公は14歳の少年で、正体不明の外敵との戦闘に否応なく巻き込まれていく。さらに、権威的な父親と対立する少年の不安と飢渇が語られ、家族なき少女たちの孤愁や献身が描かれ、その斬新な心理表現は若い視聴者たちの熱烈な支持を集める要点となった。戦争、人類、家族、友情のストーリーに、どのようなキリスト教的なリンクが仕組まれているのだろうか。
解き明かそうとは思わないし、思ってはならない。そこに深い連携はないからだ。壮大な物語を仕掛けようとする時に、神話世界の構造やタームを拝借して大風呂敷を広げるのは定石のようなものだ。視聴者はそれと気づかなくても不思議に安心して楽しめ、似ていると気づけばまた喜ぶという2段ロケット式の利点が生まれる。しかし『エヴァ』においては、伏線の先をいくら手繰って行っても実体は出てこない。
監督と脚本を担当した庵野秀明氏自身が「衒学的(げんがくてき)な」手法であったと述べている。つまり「まやかし」ということだろう。埋め込まれたキリスト教の言葉やイメージは、物語に神秘性、史的文脈、厚みを与えるためのギミック(仕掛け)に過ぎない。
深読みするべき啓示や暗喩があるわけではなく、ユダヤ教とキリスト教を基とした破片でよくぞここまでコラージュしましたという功労的な評価に値する。キリスト教に対するよほどの好意と興味がなければ、ここまで労力を注ぎ込むことはしないのではとも思わせられる。
海外SF小説との類似や引用の指摘をされることもある『エヴァ』だが、個人的にまず思い浮かぶのはアーサー・C・クラークの長編『幼年期の終わり』だ。キリスト教会と関わりの深くない方々にはおよそ耳にすることがなかったであろう「携挙」(けいきょ)という教理がある。クリスチャンが上空に挙げられ救世主に迎えられるというキリスト教の終末論のことだ。
『エヴァンゲリオン』に描かれたひとつの終局「サードインパクト」と、『幼年期の終わり』で提示される驚天動地の結末に、携挙のサブカル的解釈を発見したと浅はかにも汲み取った者は、おそらく一人だけではないはずだ。(高嶺はる)