カール・バルトからのアジアのキリスト者への奨め
続いてヘイスティングス氏は、日本の神学者とも親交のあったスイスの神学者、カール・バルトについて触れた。バルトは1968年、亡くなるわずか3週間前に東南アジアの諸教会に向けて個人的な生涯最後となる手紙を送っている。この手紙はもちろん東南アジアの諸教会に向けられたものだが、バルトと個人的な親交のあった日本人神学者らも心に留めつつ書いたものだろうと、ヘイスティング氏は予想する。
手紙の中でバルトは、スイス出身である自身の神学がアジアで大きく歓迎されていることに驚きを見せつつ、2つの友情あふれる奨めをしている。
「神のためにキリスト者として言わなければいけないことを、責任を持って具体的に、あなた自身の言葉と考え、概念、方法を用いて語ってください。より責任があり、具体的であればあるほど、良いキリスト者となります。良いキリスト者、神学者になるために、『ヨーロッパ人』や『西洋人』『バルト主義者』になる必要はまったくありません。(東南)アジアのキリスト者になることに気兼ねしないでよいのです。そのままでいてください。あなたの周りの宗教や支配的なイデオロギー、またあなたの地における『諸現実』との関係の中で、傲慢になるのではなく、臆病風に吹かれることなく、そのままでいてください」
ヘイスティングス氏は、バルトは言葉による聖書の翻訳だけでは十分ではなく、各地域のコミュニティーに根ざした「方法」で地域に対しても受肉(翻訳)されなければならないのだと語っている、と説明する。これはまさに「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)であり、ダレル・グーダー氏が言う宣教的教会論の3つ目「宣教的教会論は文脈的」とも合致すると語った。
「われわれは皆―そこにいるあなたがた、またここにいるわれわれ―は、唯一の霊、唯一の主、唯一の神を信じ、信頼し、従わなければならないのです」
バルトの2つ目の奨めは、いかなる地域、いかなる時代においても、すべてのキリスト者の中心となるのは、聖書で語られている十字架にかけられたイエス・キリストであるべきということだ。これらバルトの2つの奨めは、スコットランド出身の宣教歴史学者アンドリュー・ウォールズが提唱する「土着原理」と「巡礼原理」に重なる。
ウォールズ氏は「この2つの原理は対立していないし、また何らかのバランスで保たれる必要もない。どちらかを過剰に強調することを恐れる必要はないが、どちらかを十分に強調しないことのみを恐れるべきだ。喜ばしいパラドックス(矛盾)として、キリストがより多くの民族の思考様式や生活体系に翻訳されればされるほどに、われわれのキリスト者としての共通アイデンティティーがより豊かになるのです」と語っている。
日本のキリスト教界へ対する3つの提案
ヘイスティングス氏はこれらの議論の最後に日本のキリスト教界へ向けて3つの提案をした。
1つ目の提案は、「Ad Fontes!!!(原典に戻れ!)」。ヘイスティングス氏は、日本ではまだ研究されていない重要なキリスト教の歴史、伝統があると指摘する。そして、日本人キリスト者の研究者や教会、大学・神学校が、日本における主要なキリスト教の伝統を戦国時代から現代まで包括的に研究し、さらにはそれらを英語に翻訳することも提案した。「先祖を敬う日本の社会において、高山右近や津田梅子、植村正久、河井道、内村鑑三、賀川ハルよりも、アウグスティヌス、ルター、バルト、ティリッヒなどの方がよく知られているというのはおかしいのではないか」とヘイスティングス氏。「先輩を神話的英雄とするのではなく、誠実で批判的な研究がなされるのが重要。真剣な『Ad Fontes』は、日本のキリスト者のアイデンティティーを深め、西洋から開放し、中国、韓国、台湾などのキリスト者との相互理解をもたらすはず」と語った。
2つ目の提案は、信仰の父母の証しに倣え。ヘイスティングス氏は1つ目の提案の延長として、先輩の日本人キリスト者の歩みに倣うことを奨め、代表的な日本人キリスト者の例として賀川豊彦と賀川ハルを挙げた。賀川が1921年に設立したイエスの友会では、1)イエスにありて敬虔なること、2)貧しき者の友となりて労働を愛すること、3)世界平和のために努力すること、4)純潔なる生活を喜ぶこと、5)社会奉仕を旨とすること、の5つを五綱領として掲げた。ヘイスティングス氏は、この5つについて、一般に「福音派(教会派)」と「社会派」に別れるプロテスタント教会の両面を兼ね備えるもので、信仰と活動が非常に統合された良い例として挙げた。
3つ目の提案は、「壮大な物語(Grand Narratives)」の化けの皮を剥げ。ヘイスティングス氏は、米国における「壮大な物語」は国と宗教的アイデンティティーを融合する「市民宗教」だと指摘する。米国の多くの教会の礼拝堂には、教会の旗と共に国旗が並んでいる。米国の国鳥であるワシと、キリスト教の象徴である十字架を混同している人がたくさんいるという。ヘイスティングス氏は、こうした「壮大な物語」というのは、ある政治的な目的のために形成されたものだとし、日本においてもこうした「壮大な物語」があるはずだと語る。
20年にわたって日本に住んでいたヘイスティングス氏は、自身の経験から日本における「壮大な物語」は、日本がまるで1つの家族が拡張したような単一民族による島国だという考えがそれに当たるのではないかと言う。ヘイスティングス氏は日本にいた20年間の間に、甲府、金沢、神戸、東京といった都市を巡って来たが、各地は地理、方言、 性格、歴史、文化、伝統それぞれにおいて大きな違いがあり、全く同一の民族というのは難しいのではないかと思うと語った。その上で、ヘイスティングス氏は「『壮大な物語』の化けの皮を剥ぐということは、母国の敵となるのではなく逆のことだ」と述べ、自国の「壮大な物語」を丁寧に大胆に暴いていく必要を語った。
最後にヘイスティングス氏は、「日本の皆さんにとって、最初の宣教的任務は日本のクリスチャンとなることであり、自国の教会の歴史を丁寧に学ぶこと、信仰の父母に倣うこと、傲慢にではなく、また自国の諸現実や支配的なイデオロギーのために臆病風に吹かれるのでもなく、あなたの地の『壮大な物語』を暴いて行くことだと思います。そして、全世界の教会が、キリストの弟子としての声を奏でるために、日本がその独自の役割を担うことで、励まされることを期待しています」と、自身の提案とバルトの手紙の内容を織り交ぜて日本の教会にエールを送った。