使徒聖パウロの回心を記念した礼拝が25日、東京・池袋の立教学院諸聖徒礼拝堂で行われた。立教大学はスクールニックネームが「St.Paul's University」となっており、パウロの回心日の礼拝は同大にとって特に大切な礼拝の1つだ。
この日の礼拝では、同大学チャプレンの宮﨑光氏が説教を執り行い、パウロの回心について語った。
宮﨑氏ははじめ、「パウロは一体何をした人なのか?キリスト教はパウロを大切にしているが、なぜ大切にしているのか?」というような、自身の幼い頃に持っていた素朴な疑問を紹介した。成長するにつれ、パウロの回心について知るようになるが、その劇的なパウロの回心に憧れを持っていた頃を振り返った。しかし、宮﨑氏はパウロの劇的な回心に憧れてはいたものの、「凡人の私にはないだろう」と思い、パウロと距離感を感じていたと言う。
宮﨑氏は、「回心」という言葉は、ギリシア語で「立ち位置を反対側に置く」という意味を持ち、「悔い改め」などと訳される「メタノイア」という言葉だと紹介。「改心」ではなく「回心」と書くのは、心を180度反対側に置くという意味を込めたものであることを説明した。パウロはまさにキリストと出会ったことで、「迫害者」から「伝道者」に180度変わり、価値観が逆転したのだと語った。
こうしたパウロの生涯を見る時、宮﨑氏は、以前はパウロの回心を瞬間的な劇的なものとしか見ていなかったが、パウロの回心というのはあの瞬間だけではなく、パウロの生涯全体が回心の体験だと思うようになったと言う。パウロがその生涯全体を通して回心の生涯を遂げたと考える時、宮﨑氏は「パウロという人にようやく少し近づくことができるように気がしている」と語った。
宮﨑氏は続けて、キリスト教の最初の殉教者として記録されているステファノについて触れた。ステファノが石打の刑により殺される時、パウロはその現場に荷物番のような立場で、またステファノの殺害に賛成する立場で居合わせていた。当時、パウロはユダヤ教社会の国粋主義者で非常にエリートだったが、ステファノの殺害現場の光景が心の中に残像のように残っていたのではないかと語った。宮﨑氏は「なぜ、ステファノは死をも恐れずに、イエスという死刑囚をキリストだと信じることができるのだろうか」といった思いがパウロの心の中のどこかに常にあったのではないかと語った。
その後パウロは、ダマスコへ行く途上で、光に打たれ、地に倒れ臥し、「サウル(パウロの名)、サウル」と呼ぶイエスの声を聞くことになる。パウロは3日間目が見えなくなるが、3日後に目から鱗のようなものが取れて目が見える共に新しい価値観に目覚めるようになる。まさに「劇的な回心」を経験する。
しかし、宮﨑氏はパウロのその後に注目する。パウロは回心し、迫害者から伝道者に変わり、福音を宣べ伝えようとするが、キリスト教徒からは「迫害者であったパウロがなぜキリストを宣べ伝えているのか」「怪しい、怖い」という疑心の目で見られ、ユダヤ教徒からは「寝返った裏切り者だ」「反体制分子だ」と迫害の対象になる。そんなことから故郷で身を隠す時期も過ごし、イエスの直接の弟子達から理解を得るのもとても手間がかかった。
これらを踏まえて、宮﨑氏は「パウロが伝道者として務めを果たせるようになるまでは、とても勇気と決断が必要だった」と言う。「あの一瞬の回心体験だけでは、パウロの回心体験を集約できない」「パウロの回心は彼の生涯全体なのだ」と語った。
宮﨑氏は、パウロの回心がパウロの生涯全体のものだと捉えることが「私達に生きる意味でのメッセージにつながって行く」と言う。そして、宮﨑氏は、パウロの生涯全体が現代の人々に伝えるメッセージ(福音)について「逆説」というキーワードで説明。「学歴も知識も地位も、あらゆるものを放棄することによって、得られる本当のことが何かあるということ。失われたときに得られるものがあるということ。捨てたときに与えられる何かが必ずあるということ。弱いときにこそ強いということ。いずれも逆説。こえらがパウロの回心の生涯全体のメッセージとして捉えることができると言える」と語った。