カンビル氏は、「私たちが霊的に育たないと受けることのできない恵みがある」と語り、信仰の入り口となる「罪の赦し」の次の段階として、エフェソの信徒への手紙1章から3章を本文に「地上における天的な生涯」を説いた。エフェソの信徒への手紙についてカンビル氏は、「キリストにある私たちの立場」を語る前半部分(1~3章)と「その立場から来る結果」を示す後半部分(4~6章)に分けられるとし、特に前半部分について「クリスチャン生活の土台」と語り、その重要性を強調した。
カンビル氏は、「すべての天上の祝福が私たちのものとして与えられている。それをただ下さいと言えばいい」と語り(エフェソ1・3)、「(善行ではなく)イエス・キリストの御名によって誰もが神に近づくことができる」と説いた。また、「私たちは人間の知恵によって神を知ることはできない。神は世界を創る前から私たちを選んでくださった」とし、「(死後天国に行くだけでなく)神の御前にきよく、傷のないものとして歩むために私たちを選んでくださった」(同1・4)と強調した。さらに、「神の子」(同1・5)の身分について「赤ちゃんとしてではなく、神の意志を知り、その中を責任をもって歩む神の息子、娘として生きるように、神は私たちを定めてくださった」と説いた。
カンビル氏は、「聖霊の啓示を受けるなら、物事が違って見えてくる。私たちはイエスを知るようになる。イエスは私たちと共にいてくださる」と語り、「きよくなること、それこそが私たちの召しに伴う希望。私たちがそのことを理解するときに、世界に向き合う態度も全く違うものとなる」と強調した。
さらに、「信じる者の内にあって働かれる神がどんなお方か、どんな素晴らしいことをしてくださるかご存知でしょうか」と問いかけ、「イエスを知る者たちは、キリストによって共に復活させ、共に天の王座につかせてくださった。それこそが、神が私たちに備えてくださったこと。信じる者の内にそのことが起こる」と説いた(同2・1、6)。
最後にカンビル氏は、「神の満ちあふれる豊かさ」(同3・19)がキリスト者の内に満ちるのは、「ただイエス・キリストの十字架のもとにおいて」だと強調し、「(クリスチャン生活の土台として)イエスの血潮を忘れないでいたい」と述べた。