同集会には海外で伝道され救われた帰国者が参加し、祈りと交わりの時がもたれた。海外の教会やクリスチャンフェローシップを通して素晴らしい体験をしてきた帰国者たちに対し、米内氏は「海外でイエス様を信じて救われた皆さんにとって経験した外国は、皆さんの人生の中で宝のようなものではないでしょうか。日本にいるよりも、その国や地域のフェローシップに引っ張られていかないでしょうか」と述べ、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある(マタイ6・21)」生活になってしまうことを指摘した。
その上で、日本に身を置いて、今まで成功してきたこと、上手くやっていたことが全然思うようにいかないような状態に陥ったとしても、「イエス様は同じ場所で深みに漕ぎ出してもう一度網を投げなさいとおっしゃっておられます。自分たちはもうダメかもしれないという、思うようにいかない状況の中で、イエス様は網を投げよとおっしゃっています」と伝え、聖書に出て来る人物も同様にうまく行かない人生を送っていたことを指摘した。
人の影の部分、暗い部分に入っていったパウロ
米内氏は、とりわけパウロ使徒について深く言及し、「パウロは当時の地中海世界を股に掛けて何度も旅に出ました。イエス様のことを当然知る由もない人のところまで出かけていき、命をかけてまで福音を伝えた第一人者ですが、行く先で必ずトラブルに巻き込まれ、思うようにいかないことがほとんどでした。自分のことを理解してくれない異邦人からだけでなく、自分の同胞のユダヤ人や神様を信じているクリスチャンからも、誰からも認められないような世界にパウロは漕ぎ出していきました。パウロは一見、ものすごい成功を収めた人物のように見える一方、人の暗い部分、陰の部分によく触れている人で、トラブルを抱えている人達の中に敢えて入っていく人でもありました」と伝えた。
またパウロ使徒の暗い自己表現の仕方について、Ⅰコリント15章8節「最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、イエス様は現れてくださった」と表現している箇所を指摘し、「月足らずで生まれたとはつまり流産であり、死産でもあります。『生きて生まれて来るべきではなかった自分である』というそのような思いさえ込めて『こんな俺にイエスは現れてくれた』ことが最も大切なことであるとしてパウロは伝えています。自分の過去に活躍したことや能力を表現したいのではなく、ダメな自分、出来ない自分、この世に存在していてもしなくてもどうでもよいような自分に神様が託してくれていることがあるという事を伝えようとしていました」と説いた。
海外から帰国したクリスチャンの青年たちに対し、米内氏は「イエス様は弟子たちに『魚が獲れない漁場だから良い漁場に行きなさい』ではなく、魚が獲れない漁場の中にあって、『深みに漕ぎ出しなさい』とおっしゃいました。そのことで不思議なことが起こりました。一方私たちは自分たちが伝道している場所が『魚が獲りやすい湖なのかどうか』が神様の召しよりも気になることがないでしょうか」と問いかけた。
深みに漕ぎ出しなさい-応答が大事
その上で米内氏は「次のステップは『自分たちがどこにいるか、何ができるか、どんなに努力をしたか』ということに関係なく、『深みに漕ぎ出して獲れ』とイエス様に言われれば、『そのようにしてみましょう』という応答です。湖の上の弟子たちは、イエス様に応答した結果魚が獲れるようになりました。聖書では『なぜ弟子たちは浅い湖で魚が獲れなかったのか?』という理屈には一切触れていません。理屈について考えることがいけないとは言いませんが、解決のつかないこと、考えの及ばない事は世の中にはいくらでもあります。そのような中にあっても主にある者は諦める必要は一切ないことがこの御言葉からわかります」と説いた。
世界の中で日本が置かれている状況について米内氏は、「確かに日本はいろいろな意味で大変な状況に置かれていると思います。クリスチャン人口の多少に関わらず、昨年の震災以降の復興の過程や、東アジアにおける領土・領海問題においても、日本の置かれている立場はものすごく微妙で、厳しくてこの先どうしたらよいのか真剣に考えないと行き詰ってしまうような状況にあるのではないでしょうか」と問いかけ、「戦争や国家というものがある中で、そういうもので個人の人生を苦しめるのだとすれば、そのようなたったひとりの苦しんでいる姿があるのなら、そのようなたったひとりの苦しんでいる人のために為すことは、決して意味のないことではないと思います」と述べた。
慰安婦問題、男性中心社会全体に責任
その上で隣国である韓国との間で長らく生じている問題のひとつである「慰安婦問題」について、「韓国の人たちが、日本に対して問題としていることで従軍慰安婦の問題があります。慰安婦が強制的であったのか、あるいは自発的に行われたものだったのかという議論があります。もし『慰安婦制度そのものが社会として問題なのだ』と位置づけるのならば、それがたとえ強制的であろうが自発的であろうが、慰安婦の女性がどこの国の人であろうが、『個人をそのような社会構造の中に追いやった当時の国家形成そのものが問題だ』ということができないでしょうか。さらにひとりの女性をそういうところに送り出さなければならなかった『身分差、貧富の差、階級の差、アジアの家父長制度、さらには男性中心の社会全体に責任があった』といえるのではないでしょうか」と問いかけた。
次ページはこちら「ひとりのクリスチャンによって変えられた隣国のイメージ」