趙グンホイ氏は、故ハ・ヨンジョ氏が開拓した芸能人教会を引き継ぎ、芸能人の救いを導く他、著書として「信仰の偉人たちの祈りと礼拝」、「神様との出会いである礼拝」「神様に捧げる応答」を執筆し、真の礼拝のあり方について旧約聖書、新約聖書を関連付けた深い洞察を行っている。
今回のセミナーでは同氏から教会における真の礼拝のあり方について、旧約聖書のモーセの幕屋、ダビデの幕屋とキリストの教会を対比した解説がなされ、礼拝の本質と形式について改めて考え直す時間が持たれた。
趙氏はペットボトルの中の水を例に挙げ、礼拝の本質と形式について「水(本質)が大事だが器(形式)も重要。しかし器(形式)は時代の変遷に従って変わることもある」と説明した。
その上で現代の教会のあり方について、1.礼拝の本質を変えることなく、以前の伝統形式のみを固守する礼拝、2.礼拝の本質がなくなり、以前の形式だけを守っている礼拝、3.礼拝の本質は変えることなく、現代的形式に変えた礼拝、4.礼拝の本質を全く変えてしまい、現代的パラダイムに変えた礼拝の4つのあり方に分類できると説明し、礼拝の本質がなくなった礼拝は礼拝の意味がないこと、本質が生きていて形式が異なる場合は、時代変遷に従って形式は色々な形で変えられていくのであり、既存の世代、上の世代が若い世代のプレイズ&ワーシップなど新しい形式の礼拝を「礼拝ではない」と見なしてしまうような傾向があることは問題であると指摘した。
礼拝の本質について趙氏は「礼拝は神様との出会い。神様は何よりも心からの礼拝や賛美を受け取って下さる神様。復活されたキリスト・イエスを心から褒め称えることが礼拝では重要である」と説いた。
またヘブル書10章19節~20節を引用し、「私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができる。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私達のためにこの新しいける道を設けてくださった」からこそ、旧約聖書で大祭司が年に一度だけ至聖所に入ったように、「王なる祭司」となったクリスチャンが「イエス様の血潮」によって神の前に出て行くことができるようになったと説いた。
礼拝を捧げるクリスチャンの態度について、「礼拝の中心は自分ではなく神にある。自己中心的な礼拝ではいけない。自分の欲望を満たすために熱心に礼拝を捧げるのではなく、神の御心を満たすために行われなければならない。地球が中心ではなく太陽が中心にあるのと同様に、人生の中心を自分ではなく神様に置くべき」と説いた。
この世に教会が存在している意味について、「教会はこの世にあって、海に溺れている人たちを助ける霊的な救命ボートのような役割を担っている。すべての人たちが、必ず来るべき場所が教会。この地に建てられた天国のモデルハウスであり、天国のビザを発給する大使館、領事館の役割を成す場所。教会は天国の市民権を持っている人たちの集まりである」と説いた。
毎週の礼拝について「参加する態度が習慣化するのではなく、天の門に招かれるという感激をもって神の礼拝に参加するべき」と述べ、モーセの幕屋にあった洗盤で、捧げものを捧げる前に手足を洗ったように、教会の礼拝では罪の告白をする祈りをもって悔い改めを行うことで、「新しい朝の礼拝の恵みをくださるために、私達の魂の器を清めるべき(詩篇24:4~5)」であると説いた。
その上で神様の御言葉の恵みを受け、聖霊との交わりを熱く求め、聖霊の火を消さないように油を灯し続ける姿勢が大切であるという。趙氏は神様の御言葉をモーセの幕屋の「パンの机」、聖霊戸の交わりを「オリーブ油の燭台」と対比して説明し、「神様が一番求めている礼拝者は、聖霊で満たされた熱い心を持ち合わせた人である(ヨハネ4・24)」と説いた。
趙氏は現代の韓国教会にあり方ついて、「伝統的な長老教会は、御言葉に根差し、御言葉に固守している姿が見られる。ペンテコステ系は聖霊に対して固守しながら、そこに偏っている姿が見られる。長老教会の信徒は、御言葉の研究と学びをしているので、(御言葉について)驚くほどに色々な知識をもっている。御言葉と知識はあるのだが、それをもって出て行く原動力、エナジーに欠けるところがある。一方ペンテコステ系の教会については、聖霊の力は熱くある一方、真理に対して少し不足がある」と指摘し、「イエス様は『真の礼拝とは霊と真をもって捧げる礼拝(ヨハネ4・24)』と言われた。しっかり御言葉を学び、聖霊を知る力を得ることで、世の中に影響力を持つクリスチャンになることができる。聖霊に満たされた信徒は祈りに力がある。伝統的な長老教会は、聖書の勉強はたくさんする一方祈りが足りない。ペンテコステ系は、たくさん祈るが御言葉の勉強が足りない。この両方がひとつになっていくことを信じている。そうなると世の中は変わっていくだろう」と述べた。
また「とりなしの祈り」の重要性について、「祈りを通して『王なる祭司』とされたクリスチャンは他の人々に仕えなければならない」と説き、エステル記のエステルの役割についてアハシュエロス王を神、モルデカイを聖霊の象徴、ハマンを悪魔の象徴に例え、「エステルが直接ハマン(悪魔)の陰謀を自分で暴こうとせず、仲介者として神の象徴であるアハシュエロス王と親密な関係にあった」ことがユダの民を救いに導いた秘訣であったとし、「日本の民、国家民族のためにとりなしの祈りをしているならば、神様は考えられなかったような驚くべき祝福を日本に下さるだろう。霊的な戦いの勝利の秘訣は、サタンと直接戦わずして神と親しくなっていくということ。真の礼拝者こそが、霊の戦いに勝利することができる」と説いた。