第51回バックストン聖会最終日の21日午後2時半の集会で主講師の工藤弘雄氏(日本イエス・キリスト教団香登教会牧師)は、マタイによる福音書6章1節から34節を本文に神との関係における義を説き、「あれしてはいけない、これしてはいけないというよりも、きよめの醍醐味は、何もかも神に任せて、神によって生きること」と強調した。
工藤氏は、キリスト者生活で陥りやすい3つの危険として、▽偽善、▽貪欲、▽思い煩いを挙げた。それぞれについて、「神と人との間に人が入ると偽善、神と人との間に物が入ると貪欲、神と人との間におのれが入ると思い煩う」とし、「私と人との間に神が、私と物との間に神が、私とおのれとの間に神が入ってくださるときに(3つの危険から)解放される」と語った。そのうえで、マタイによる福音書6章1節から34節を3つに分け、それぞれ▽神の前に生きるホーリネス(1〜18)、▽神のために生きるホーリネス(19〜24)、▽神にたよるホーリネス(25〜34)と題して説いた。
工藤氏は、1節から18節でイエスがユダヤ教の3要素―施し(1〜4)、祈り(5〜15)、断食(16〜18)―に触れながら、それぞれ▽人に対する行為、▽神に対する行為、▽おのれに対する行為について教えていると説いた。工藤氏は、「すべてが神の御前でされるようにとイエスはおっしゃっている」と語り、イエスの示す隠れた善行、隠れた祈り、隠れた断食を強調した。
工藤氏は、施しとは伝道や慈善行為などあらゆる善行を指しているとし、牧師や人に認めてもらいたいとの誤った善行の動機を指摘した。
祈りについては、祈りを聞く人に自分を表したいとの誤った動機や、人前で祈ることが恥ずかしいという思いの中にも「おのれが生々しく生きている」と偽善を厳しく指摘した。また、バックストンが主の祈りから、キリスト者生活の3つのセンス(感覚)を説いていることを紹介した。バックストンは、日ごとの糧を求める祈り(11)には欠乏の感覚、罪の赦しを求める祈り(12)には罪に対する感覚、危険からの守りを求める祈り(13)には罪の危険に対する感覚が表されているとし、主の祈りの中にキリスト者生活の豊かなきよい生活が含まれていると説いている。
工藤氏は、天の父との呼び掛け(9)には神の御子とされたことへの溢れる感謝が、御国の到来を求める祈り(10)には神の約束に基づく希望が、御心が行われるようにとの祈り(10)には神への全き明け渡しが表されていると説き、「イエス様のうちにも燃えたぎっていたところの祈りではないだろうか」と語った。
断食については、「それなりのすばらしい祝福を私たちに与えてくれる」と評価する一方で、あくまで自らの霊性を深める手段であり、条件と勘違いしてはならないと強調した。
工藤氏は、19節から24節にイエスからの3つの問いが示されていると説き、▽あなたは金銭や富を天に蓄えていますか、それとも地上ですか、▽あなたの目は澄んでいますか、それとも濁っていますか、▽あなたの主人は神ご自身ですか、それとも富ですかと問い掛けた。工藤氏は、創世記13章で自らの満足を求めてヨルダン川流域の低地一体を選んだロトの目は濁っており、神に示された道をまっすぐに進んだアブラハムの目は澄んでいると説いた。
また25節から34節では、目に見えるものを頼りとせず「わが霊によるなり」(ゼカリヤ4・6)とただ神により頼む信仰を強調した。工藤氏は、この信仰の姿は父なる神に絶対的に依存したイエスの姿と重なり、祈ることを必須としたその弱さにこそ、主の大能によって力強い、ホーリネスの恵みの核心があると語った。
さらにマタイによる福音書7章に進み、「あなたの実はよい実か悪い実か。あなたの告白は主よと言いながらおのれの義をなす告白か、父の御旨を行う告白か。あなたの岩は肉の岩か、磐石の岩か」と問い、「主は決断を迫っておられる」と強調した。