第51回バックストン聖会3日目の11月21日午後6時半の集会で、日本イエス・キリスト教団東京若枝教会牧師の飯塚俊雄氏は、「きよめは教理で片付くことではない。人格によるもの」と語り、「主の前にありのままをささげて参りたい」と神への献身を迫った。
飯塚氏はバックストンについて、日本伝道隊の創始者の一人、竹田俊造の言葉を引用し、「語らなくとも、(バックストンの)存在が火のバプテスマにあふれていた」とその人格を表現した。竹田は、来日したばかりのバックストンが生徒の泥足で汚れた小教室の講壇に、それがあたかも大聖堂の聖餐台であるかのように両手で顔を包んで神を伏し拝んでいる姿を見ていた。語らなくとも、バックストンと1時間でもともに過ごした人々の心はうるおされ、満たされたという。「きよめは人格である」とは、竹田が神学校の教壇で生涯強調した教えだった。
飯塚氏は「バックストンのライフメッセージは火」と語り、バックストンが度々説教したイザヤ書6章から、キリスト者がもつべき信仰の3つの側面を説いた。
第1に高さだ。イザヤは「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た」(1)と証言している。飯塚氏は、「彼(イザヤ)の見た神は栄光の神。この事実はいまも変わりません」と強調し、「グローバルな末期的な時代の様相、しかし、なお聖なる神は栄光を全地にみたしておられるという信仰の把握をしなければならない」と語った。
第2に深さだ。イザヤは、主を前にして「災いだ。私は滅ぼされる」(5)と自らの罪の汚れをはっきりと示された。飯塚氏は罪の悔い改めについて、ポール・リースの言葉を引用し、「人間が自分の生涯で一番勇敢なときは、自分と真っ向から対決するとき」と語り、「これは避けて通れない聖徒への道」と強調した。そのうえで、イザヤの口に触れた祭壇の炭火(6)について「祭壇とは十字架を意味する。炎とは聖霊ご自身」と説き、「『見よ、これが触れた』(7)とは客観的事実、主のご宣言」と罪からの救いを強調した。
さらに、「一人ひとりは主の前にその信仰のあり方を問われている」と語り、聖霊にみたされたキリスト者の3つの条件として、きよくされていることうちに全き平安のあること従いやすい心をもっていることを挙げ、「今日、私たちは今までの古いものを脱ぎ捨てて、前進したい」と力を込めた。
第3は広さだ。飯塚氏は、「燃える心は主の重荷がわかる」と説き、「自分の生涯を(神に)ささげませんか」と神の働きへの参与を呼び掛けた。