~「その幸せを、私にもください」~
主人が、歩行器を使って歩けるようになった頃、リハビリテーション(機能回復訓練)を集中的に受けるために、山梨県石和(いわさ)町の専門病院へ転院を勧められました。でも、子供たちのいる東京から、親戚が一人もいない山梨県に移るのは、あまり気が進みませんでした。それに、東京・杉並区の神学校まで、あと少なくとも二年間通わなければなりません。石和からですと、片道二時間かかります。
とはいえ、リハビリテーションでは定評のある病院ですから、主人が回復するならと思いまして転院し、その町の教会に出席することにしました。その頃、次女の恵參は高校を卒業して、ブラジル航空のスチュワーデスになり、恵芝と二人で、私と主人のために月々二万円の仕送りをしてくれたうえ、弟三人を世話してくれていました。
石和から神学校までの通学定期券代と、主人の着替えや病床で必要なこまごまとした日用品とで1万8千円はかかりますので、私の食費まで捻出できそうにありません。考えたすえ、あの頃一番安かった三束百円のそうめんを買い、毎日一回どんぶり一杯のそうめんと、醤油や調味料、ねぎだけで済ませることにしました。
石和に移って以来、私の生活は忙しさに一段と拍車がかかりました。毎朝三時に起きて主人の体を拭いてあげ、便の始末をして、流動食のチューブと小水のチューブを消毒して差し込みます。それから、前の晩に残しておいた重湯を温め直してチューブから飲ませます。私が留守となる昼間は、三本の点滴をしますので、空腹にはなりません。
これだけの手はずを整えるのに、手慣れているとは言え二時間かかります。それから五時すぎの始発電車に飛び乗って神学校に行きます。学び終えて、電車に乗って夕方四時には病室に戻ります。そして、ただちに主人に昼食用の流動食を与え、車イスに移して機能訓練室に向かいます。手足の曲げ伸ばしや、手すりを使っての歩行訓練等、ひととおり済ませると早や夕暮れです。それから車イスで風呂場に連れていき、入浴用介護機具に体を移し換え、浴槽の中に機具ごと沈めて洗ってあげます。
それが済むと、もう夜の9時。消灯時間ですが、それからが主人の夕食時間なのです。ベッドの手元のわずかなライトの下で、チューブから重湯を流し込んであげます。そのあと洗濯をして、片付けがひととおり済むと十時半。ようやく、一日一食のそうめんにありつけるわけでした。
その頃には、もう空腹などという生やさしい状態を通り越して、文字通りお腹の皮と背中の皮がひっついてしまっているのでした。体重も35キロしかありませんでした。今は54キロありますが。しかし過酷な義母のもとで、手ひどく扱われてきましたので、忍耐力は鍛えられていました。
「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない(ヨハネ6・63)」
この聖句の通り、私はどんなに食べ物が乏しくても、どんなに痩せこけていても、毎日感謝と喜びと希望に燃やされていました。これほど生き甲斐のある生活があるでしょうか。たった一杯のそうめんをいただく時も、聖霊に満たされてこう祈るのでした。
―主よ、感謝します。この一日もまた、あなたの力強い御手の中に守ってくださいました。主よ、この一杯のそうめんを祝して、牛肉一キロ分の力で満たしてください。―
食事が済むと11時。それから二時間が私の勉強時間でした。私は40代に入っており、主人の介護や往復四時間余りの通学時間というハンディを抱えていました。十数名の若い神学生たちと一緒に授業についていくのは、想像以上に大変でした。中でもヘブル語、ギリシャ語の授業は予習復習が不可欠で、若い人でも苦手な人が多かったのですから。
夜の11時に、病院内で電灯が灯っているのはトイレだけでした。考えたすえ、トイレの便器の上に洗濯板を置いてその上に腰掛け、膝に置いたもう一枚の洗濯板の上で、ギリシャ語やヘブル語のテキストを広げて勉強を始めました。
深夜一時頃になりますと、さすがに疲れが出てきてふらふらし、知らない間にこっくり、こっくりと居眠りしています。二時間後の三時には起きなければなりません。その間も、時折ドアの外でノックする音がしました。私は何も言わず、トントンと叩き返しました。
「あのトイレは、夜中でも灯がつけっ放しで『使用中』になっている。一体誰がいるのだろう」
間もなく、院内にそんなうわさが流れだしたそうです。知らないのは私だけでした。ある晩、いつものように勉強を終えてトイレを出てくるところを婦長さんに目撃され、ついにこの一件がばれてしまいました。
「まぁ、あなたでしたか。いつもトイレに入っている人というのは。でもどうしてまた…」
「すみません。ほかに勉強する場所がなかったものですから」
「そういうことでしたら、配膳室を使ってくださって結構ですよ」
そんなわけで、主人が入院していた二年間というものは、配膳室で、電気代も要らず誰にも気がねすることなく勉強することができました。神様は婦長さんを通して、何ともかゆいところに手が届くような配慮をしてくださったのでした。
排泄機能の麻痺した主人は、私が指で便をほじり出そうとしても、何日も出てこないことがありました。その代わり出始めると大きな塊が次々と出てきます。ついうれしくなって、同室の付添いさんたちに、便を包んだ新聞紙を見せて言うのでした。
「これ見て。みんなウンチよ。こんなにたくさん出たのよ」
「まぁ、王さんの奥さんたら、旦那さんがウンチ一杯出たからと言って、あんなに喜んでる。こんな人、初めて見た」
皆さん、なかばあきれ顔でした。食うや食わずの毎日にも係わらず、私は悩みや心配事とはおよそ無縁で、無邪気そのもの。いつもけろっとしていて、よく笑いました。
もともと底抜けに明るい人間なのです。そこにさまざまな試練が、常軌を逸した形でやってきたわけですが、一つひとつ乗り越えてきましたので、突き抜けるような明るさが表れてきたのだと思います。誤解や中傷を受けても、気にならなくなりました。入院中の患者さんたちは、難病、交通事故による大怪我などで、地獄のような思いでうつうつと過ごしています。それで、何人もの患者さんに聞かれました。
「ご主人があんなに大変なのに、あなたはどうして『世界で一番幸せ』といった顔をしてるんですか」
「ええ、私ほど幸せな人はいませんよ」
「その幸せを、私にもください」
「それには、イエス様を信じてください。そうすれば、心の中から神様の愛が泉のように渾々と湧き溢れてきて、魂の飢え渇きをうるおすことができるんですよ」
そう言ってから、私が独身時代、孤児同然に過ごす中で、イエス様にどのようにして助けられてきたかを語りだしますと、皆さんは救いというものを目のあたりに見たという実感が湧くのでしょう。喜んで涙を流して聞いてくださり、何人もの人がイエス様を信じました。
~一難去って、また一難~
主人の足腰は、リハビリテーションによって日増しに強くなっていました。そこで主治医は、「今日から入浴後、五分間だけ歩行器をはずして立つ訓練をしなさい」とおっしゃられました。それができるようになりますと、間もなく10分へと延長するように言われました。
しかし、主人にはそれはまだ無理でした。五分すぎると、上体がゆらゆらと揺らぎ始めました。でも私は、律儀に命じられたとおり10分間立たせなければならないと思っていました。それで、「パパ、しっかりして!」と励ましながら、揺れる体を支えたくても、がまんしていました。
主人は八分目に突然「うわぁー」と叫ぶと同時にドタンと倒れ込んでしまいました。私はびっくりして、そばの呼び出しブザーを押して看護婦さんに来てもらい、主人をベッドに運び込みました。その晩から再び高熱が出てしまい、毎晩うなされるようになりました。そのため私も寝ていられず、神学校を休んでは、昼夜分かたず看病しました。
三日目に、ふと主人の顔を覗き込んでびっくり仰天。口元が歪み、両眼がつり上がって、別人のような形相をしているのです。顔面が麻痺してしまったのです。
―神様、ひどいじゃありませんか。うちの主人は美男子なのに、こんなに醜い顔にしてしまうなんて困ります。あなたを信じる者の顔を辱めないでください。必ず元どおりの顔にしてくださいね。―
われながら、厚かましいお祈りだとは思いつつ、もうそんなことにとらわれてなどいられませんでした。神様の胸ぐらをつかんで揺さぶりかねないほどの勢いで、主人の顔面麻痺の癒やしのために、飲まず食わずで時間さえあれば祈りました。無意識のうちに、断食の祈りをしていたことになります。
三日が過ぎ、四日が過ぎ、一週間が過ぎようとしていました。しかし主人は、いっこうに治る兆しが見えません。でも神様を疑わず、失望しないで一心不乱に祈り続けました。一週間目が過ぎた時、何気なく主人の顔を見ますと、すっかり癒されて元通りになっていました。同時に、食欲も少しずつ出てくるようになりました。
―ハレルヤ!主よ、感謝します。―
病院の屋上の物干し場で、こおどりしながら神様に感謝をささげました。しかし、一難去って、また一難。主人は何度も膀胱炎を繰り返してきたため、膀胱に結石ができてしまったのです。それで高熱が出始め、小水も出なくなり、全身がむくみ出しました。手足などは、はち切れそうになり、大粒の汗がダラダラ流れ出る。顔もボールのようにまんまるになって、人相が変わってしまった。熱は下がらず、意識不明に陥り、うーん、うーんと苦しそうにうめくばかりでした。
三日目が過ぎた時、主治医は宣告しました。
「うーん…。明日あたりが危ないですね。今のうちに、ご親族に連絡をとっておかれたほうがいいでしょう」
これまでだって、七回もそんな宣告を聞かされ、そのつど胸が締め付けられるほどの圧迫感を感じてきました。飲まず食わず、眠らず看病してきた私は、すでに立ち上がる力もなく、ただ、ただベッドの横でうずくまって祈るしかありませんでした。
-主よ。死者をも生かすことのできる主よ。どうか、もう一度主人を助けてください。―
四日目。主人の全身が、突然けいれんし始め、獣の唸り声に似た、「ウワァオ―」という声が発せられました。びっくりした私は、緊急ブザーを押しました。「どうしましたか」と言って飛んで来た石は、事態を察知したらしく、布団をパッとめくるなり、アルミの洗面器を主人の股の前に当てがりました。
主人は、もう一度激しくけいれんを起こしたと思ったら、親指の爪くらいの大きさの結石がひゅーっと飛び出して、洗面器にチーンと音を立てて落ちました。さらにもう一度、全身の力を込めて唸り声を上げたと同時に、もう一個の結石が飛び出してきました。
(よかった。これでお小水が出るのだ)私自身が、九死に一生を得たような思いでした。思わず、涙がボロボロと出ました。苦しみが大きければ大きいほど、神様の憐れみによって癒された時の感動や喜びも大きいです。
ですが、試練はこれで終わったわけではありませんでした。結石が一気に押し出されたため、膀胱の血管が破裂してしまい、次には小水に混じって血液が出てきました。その出血は、数枚しかないおしめを当てがったくらいでは止まりません。あわてて、主人の下着や私の下着など、ありったけの布を当てがりました。
ようやく出血は止まったものの、着替えの下着もなくなり、主人は裸同然で唇を紫いろにさせてガタガタ震えています。シーツも血で染まってしまいました。病院ではシーツを週に一回交換してくれますが、それ以上は自分で買うしかありません。しかし、お金がないのです。どうしてあげることもできない自分の無力さ、無能さが、この時ほど悲しかったことはありません。
五日目。主人の布団をめくった時、あまりのショックに失神寸前で、かろうじてベッドの端につかまりました。私が見たのは、ビールびんのようにパンパンにむくんで、真っ赤な血の色をしている性器でした。しかも高熱のため、全面に火傷による水泡のようなものができていました。
渾身の力を振りしぼって緊急ブザーを押すと、看護婦さんが飛んできました。しかし、彼女も驚きのあまり口がきけません。主治医さえ、処置なしと見て逃げ出してしまいました。私は気が狂いそうになり、祈る力も出てきませんでした。何か考えたい、思い出したいと思っても思考力を失い、魂の抜け殻同然で、ぼーっと座り込んでいました。
しばらくしてわれに帰り、医者に見放されたからには、祈る以外にすべがないことに、ようやく思い至り、気力を取り戻したのでした。祈りは、道なき道に道を開きます。
-主よ。この小さな婢を、どうか憐れんでください。主よ、なぜですか。なぜ、この様な苦しみを一人で背負わされるんですか。なぜ、私だけがこんな苦しみを受けるのでしょうか。―
神様に食い下がるようにして、繰り返し問い詰めていき、ついには、こう訴えずにいられませんでした。
―主よ。私をお見捨てになるのですか。それならいっそのこと、回復の見込みのない主人と一緒に私も死なせて下さい。もう、生きていたくありません。生きるのに疲れ果てました。―
私は、本当に主人と心中するつもりでした。これが最後の一夜だと覚悟に決め、明日は死のうと思いました。ところがその朝、月に一回しか回診されないはずの院長先生が、突然二回目の回診を始めました。そして主人の症状を見てから、私の肩を叩いて、血の気が失せた私の顔を覗き込むようにしておっしゃられました。
「奥さん。しっかりしてください。ご主人はもう大丈夫ですから。ご主人よりあなたのほうが先に逝ってしまいそうですよ」
その時、神様が地獄のようなところにイエス様を送られ、私を励まして下さったのだと思いました。
「心配ありません。これを塗ったら治ります」と院長先生はおっしゃって、ご自分の手で作られた白い膏薬を大きな油紙に塗って主人の性器を包み、包帯を巻きつけてくださいました。私は何事によらず、人を疑うことを知りませんので、先生に言われたその言葉をそのまま信じました。
三時間後、恐る恐る主人の包帯を取って見ると、ビールびんのようにパンパンにむくんで真っ赤な血の色をしていた性器は、ずっと小さく褐色になっていました。
-ああ、神様。感謝します。―
もううれしくて、うれしくて。この喜びは、どん底でなければ味わうことができないでしょう。ほっとしたとたん、五日間飲まず食わずで、ほとんど眠っていないことに初めて気づきました。
(ああ、お寿司が食べたい。どんなにおいしいだろう。キムチも食べたい。あの真っ赤な唐がらしとニンニクが入ったキムチ。それに赤いりんご、黄色く熟れたみかん…)
次々と、食べ物ばかりが目に浮かんできました。でもお金もなければ、食べに出かける気力もありませんでした。椅子に腰かけているのさえつらくて、主人のベッドの側にうずくまっているのがやっとでした。
その時、不意に病室のドアが開きました。入って来たのは、私が通っているこの町の教会の牧師夫人でした。手には大きな風呂敷包みを持っていました。夫人は私の顔を見るなり、挨拶もそこそこにこう言いました。
「まぁー、あなたは本当に、大勢の人々の苦労を一人で引き受けているみたいな人ですね。お気の毒に…。しっかりしてくださいよ。私、これね、召し上がっていただこうと思って持ってきたんですよ」
「あぁー、どうもありがとうございます」
口をきく気力も萎えていた私は、かすれ声でやっとそれだけ言いました。牧師夫人が帰ったあと、やおらその風呂敷包みを開けてみて、もう胸が震える思いでした。先刻食べたいと思っていたお寿司とキムチが入っていたのです。感謝と喜びのあまり、涙と鼻水がどんどん出てきて、ごちそうと一緒に飲み込んでしまい、せっかくの味がわからないほどでした。
食べ終わってから、紙包みがまだ残っていたのに気づいて開けてみますと、何と、やはり先刻食べたいと思っていたりんごとみかんが出てきました。何しろ五日間も食べていないものですから、りんごは洗いもせずかぶりつきました。夢中で、ありったけ食べて食べて、食べ終わったとたん、元気になってしまいました。肉体は現金なものです。
(そうだ、洗濯しなきゃ。パパの着替えが一枚もないんだっけ)
ベッドの下から、山のようにたまった血だらけの洗濯物を引っ張り出したとたん、誰かがドアをノックして入って来ました。振り返ってみますと、お琴の師匠をしているこの町の教会員でした。肩には大風呂敷を担いでいます。
「まぁー、大荷物で。何がはいってるの?」
開けてびっくり。何と、主人が今すぐ必要な下着ひとそろい、パジャマ、毛布、シーツ二枚が入っていたのでした。「おしめ用に」と言って、タオル12枚も添えてくださっていました。私は感激のあまり、しばらく口もきけませんでした。
「人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」(詩篇8・4)
ダビデは感謝のあまり、このように神様を讃えました。まさに、私も同じ思いでこう祈りました。
-主よ。人の子が何ゆえに、これほどまでに愛してくださるのですか。こんなに見る影もないような婢を。―
「主を喜ぶことは、あなたがたの力です」(ネヘミヤ8・10)
この聖句の通り、感謝と喜びとが津波のように押し寄せてきて、それが私の内で力となって湧きあがってきました。
「パパ。神様は、あなたにこんなにもすばらしいものをくださったのよ」
意識のない主人に声をかけながら、全身を拭いて着替えさせたあと、洗濯室で山のような洗濯物を洗い始めました。口からは神様を讃える賛美が出てきて、どうにも止まりません。
♪ハレルヤ、ハレルヤ、アーメン、アーメン。
賛美していますと、山のような洗濯物も何のそのでした。何時間かかろうと、少しも苦になりませんでした。すでに消灯時間も近くなりました。
(さ、明日はこれを一気に干してしまおう)
そう思って脱水した洗濯物を持って病室に戻りました。すると、同室の付添いさんが声をかけてきました。
「明日は、大雨が降るそうよ。さっきテレビで言ってたわ」
「ええっ、どうしよう。早く乾かさないと、主人の着替えがないのよ。困ったわねぇ」
「あら、何も心配することないじゃない。奥さんは、祈ったらすぐ神様が聞いてくださるんだもの」
私はその晩、まんじりともせずに祈りました。
-主よ。夜が明けたら、どうか良いお天気にしてください。さもないと、この山のような洗濯物が乾きませんし、主人の着替えがないんです。―
夜が明けました。さて、空模様はどうでしょう。カーテンを明けますと、五月晴れでした。おまけに風がビュービュー吹いています。絶好の洗濯日和です。
心浮き浮きと、さっそく屋上に干しに行きました。でも干し場のロープを全部占領してしまうわけにはいきませんので、わが家の洗濯物は何回にも分けて干しました。何しろ強い風が吹いていますので、一時間余りで完全に乾いてしまいます。午後三時前には、全部乾き上がりました。洗濯物をたたみながら、思わず賛美が出てきます。
♪主にすがるわれに、悩みなし…。
ちょうど三時になった時、長野や東京からのお見舞い客が見えました。皆さん長靴を履き、びしょぬれのレインコートを持っており、病室に入るなり、口々にこうおっしゃいました。
「ここに来る途中、台風のせいで大雨大洪水で大変でしたよ。小さな川なんか、水が溢れて、どこが川か道か区別がつかないほどでした。でも奇妙だな。なぜこの一体だけ晴れているんですか?」
この病院近辺だけ、雨雲が払いのけられていたために雨が降らなかったというわけでしょう。天地万物の創造主である神様は、天候をも支配され、どのようにでも変えることがおできになられます。そして、この世で最も小さな婢の祈りに答えて下さったのだと思います。
主人は、二年間石和の病院でリハビリテーションを受け続けました。しかし、これ以上良くなる見込みがないことがわかりましたので、1971年に東京に戻り、再びキリスト教病院に転院しました。
その間、私は日本聖書神学校で三年間のコースを修了し、伝道師の資格を得ました。さらに牧師の資格も得るため、引き続き一年間聴講しながら、主人の病院の母体である善隣キリスト教会の伝道師として働き始めました。そして間もなく、冒頭に書いたように、山谷への伝道へと導かれたのでした(続きは次週掲載予定)。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています))
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。
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