~神は玄界灘を陸地とされた~
ところが、明日はいよいよ出発という晩、台風がやって来ました。夜通し雨が激しく降り続き、ソウル市内も空港も大洪水となってしまいました。予約していた飛行機も欠航となり、やむなく翌日の便に変更しました。しかし翌日も翌々日も雨は止まず、とうとう五日目に入ってしまいました。
当初私は、15日間有効の観光ビザで入国しました。しかしすでに30日、45日と、二回延長してもらっています。これ以上は延長できず、出国できなくなります。その45日目が明日に迫っていました。もし、明日も雨が止まず欠航となったら・・・。
ああ、どうしよう。もう祈るしかない。
―神様。明日、出国しないと不法滞在となって、罰を受けなければなりません。どうぞ、あなたを信じる者を辱めないでください。明日は、あなたご自身が雨を止めさせて、必ず飛行機を飛ばさせてください。―
さあ、乗るかそるか、天下分け目の一夜が明けました。目が覚めると、カーテンの隙間から朝日がさんさんと射し込んでいました。台風一過。もう安心。思わず飛び起きました。ところが金浦空港に着いてみると、滑走路は湖のように水におおわれていて、足止めを食らい続けた飛行機が、何機も胴体すれすれに冠水しています。おまけに、あたり一面濃い霧が立ち込めていました。これでは、誰が見ても飛べる状態ではありません。
私は、紅海を前にして後からエジプトの軍勢の足音が近づいてきた時のイスラエル民族のような、切羽詰まった心境に陥ってしまいました。
しかし神様は、不可能続きの状況を次々と打開なさり、いよいよ日本に出発する空港にまで導いてくださったのです。諦める必要はありません。最後の手段がまだ残っています。それは、大勢の人が心を一つにして祈る、執り成しの祈りです。
空港のロビーには、私たち夫婦を見送るために、百数十名もの方々が来てくださっていました。主人が所属していた中国人教会、私が所属していた韓国人教会、そして長女が所属していたアメリカ人教会の皆さんでした。一同、私たちのためにすぐさま心を一つにして祈り出しました。その祈りたるや、あたかも聖書の「使徒行伝」2章に記されているペンテコステの日の祈りのようで、天からの火を呼び下さんばかりに力強いものでした。この祈りが、天地創造の神様の御手を動かしました。
祈り終えたとたん、驚いたことに強風が吹き始め、滑走路をおおっていた水は見る見る引き始めました。その様子を見ていた一同の中から、思わず「ハレルヤ!」の大歓声が上がりました。
しかしその直後、非情にも聞こえてきたのは、「濃く立ち込めた霧のため、本日の飛行はできません」という場内アナウンスでした。でも、そんな妨げなど何のその。私たちは少しもひるまず、今度は霧が晴れるように祈り出しました。しばらくすると霧が少しずつ晴れていき、飛行可能となりました。
こうして危機を次々と乗り切って、福岡の板付空港に無事着陸しました。空港には、日本航空が手配しておいた医師や看護婦が待機しており、主人の体を一通り診察しましたが、血圧、脈拍も異常がありませんでした。板付空港から乗り継いで東京・羽田空港に降り立った時には、さすがに万感胸に迫るものがありました。
到着ロビーには、私がお世話になっている教会の主任牧師の金城先生が、附属病院の寝台車を用意して待機してくださっていました。先生が、開口一番おっしゃった言葉は、今も忘れることができません。
「いやー、『女は弱し。されど母は強し』だな、これは」
主人を、ストレッチャー(移動式簡易ベッド)に乗せて出口に向かって歩き始めると、日本航空の担当課長が、つかつかとやって来て呼び止めました。
「こんな身動きのできない重病人を乗せるなんて、一体誰が許可したんですか。こんなことは、この空港開港以来前代未聞だし、これからだってありませんよ」
その口調は、驚きを通り越して、「あきれた。こんなバカなことがあっていいはずがない」と言わんばかりでした。(誰が許可したのかとおっしゃるのですか。そのお方は、この宇宙万物の創造者、神様ご自身です)私は、心の中でそう答えた。
ペテロは、イエス様から「湖の上を歩きなさい」と言われた時、歩けると信じた。これが、信仰の力です。信仰は、冒険です。人間が水の上を歩けば、沈みます。これは現実です。しかし、この現実を超越したところにある信仰の力によって、水の上を歩くことができるのです。
「信仰と現実は、矛盾する。折り合わない」と言う人がいます。もちろん、現実は現実として逃げることなくまっすぐ見据えなければなりません。そして、そのような苦しい現実の中にこそ、キリストはともにいてくださいます。特に苦しむ者、絶望のどん底を歩いている者、不幸な者に対し、異常なまでに共感なさり、彼らの苦しみをご自身の苦しみとして、ともに苦しんでくださるのです。
ですから、どんなに苦境の中にあろうと、キリストは言われます。
「恐れてはならない、おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである」(ヨシュア1・9)
まさにこの神こそが、一切の現実の中で主なのです。私たちの全存在、全人生がキリストの御手の中にある以上、何を恐れることがあるでしょうか。人生の嵐は、私たちを呑み込もうとします。しかし私たちは、このはかり知れない神の力をいただき、あらゆる現実の力と闘い、勝ち抜いていけます。
モーセの率いるイスラエル民族は、エジプトから脱出する途中、紅海が真っ二つに分かれて陸地となり無事通り抜けることができました。これは、ハリウッド映画「十戒」の中でも、最も印象に残るシーンです。私はあのシーンを、遠い昔の出来事と見なすことはできません。昔も今も変わらないイエス様は、荒波の玄界灘を陸地となし、身動きのできない主人を、東京まで無事連れ出してくださったからです。
このように、聖書は実際になされたキリストのみわざの、溢れ流れる体験記録なのです。科学的に、神学的に解釈して事足れりとするたぐいの本ではありません。このことは、パウロもはっきりと語っています。
「わたしは、異邦人を従順にするために、キリストがわたしを用いて、言葉とわざ、しるしと不思議の力、聖霊の力によって、働かせて下さったことの外には、あえて何も語ろうとは思わない(ローマ15・18-19)」
こうして、願ったとおり主人は私の勤めるキリスト教病院に入院し、私は病室に泊まり込み、仕事の合間に介護するという生活が始まりました。しかしその先に、旧約聖書の登場人物「ヨブ」にも劣らない苦難の第二ラウンドが待ちかまえていようとは、当時、誰が想像できたでしょうか。
~死ぬべき体が生かされて~
しばらくして主人の症状が安定した頃、ひとまず退院し、私は病院勤務を辞めて自宅で介護することにしました。
見よう見まねで点滴のやり方を覚え、周りの付添いさんたちを見習ううちに、介護の要領も呑み込めてきたし、鼻から通したチューブで重湯やジュース、牛乳を飲ませるのもうまくなりました。
主人は排泄機能も麻痺していましたので、一日一度、詰まったままの大便を、指先でほじり出してあげなければなりません。それを、同室の患者さんや付添いさんに迷惑がかからないように工夫しました。まず主人の腰の下に新聞紙をさっと敷いて、便の臭いが広がらないうちに手早く包み込んだら、あとは香水をシャッ、シャッと振りかけておきます。そんなことにもすっかり慣れてしまいました。
ところが、手慣れていたはずの介護を、自宅で四六時中付きっ切りで始めてみますと、想像を越える激務でした。主人は、寝返りも打てませんので、床擦れを防ぐためにも二時間ごとに体の向きを変えてあげなければなりません。病身とはいえ、六尺余りの体格だから、小柄な私が動かそうとおもったら、揮身の力を込めなければなりません。
その頃恵芝は、家計を助けるため大学を中退し、ノースウエスト航空のスチュワーデスとなりました。当時この仕事は若い女性が憧れる職業で、給与もふつうのOLの二倍くらいだったようです。それで恵芝は、次女の恵參の高校の学費や、弟三人の学費も含めて、家計のすべてをまかなってくれていました。
しかし狭い二DKの都営住宅に、私が重病人の主人とともに帰ってきたのです。自宅療養が長引くにつれ、ふだんは親孝行な子供たちも、さすがにうんざりしてきたようでした。ことに、恵芝は時差のある国際線勤務でしたし、勤務時間が変則的で、ずいぶん疲れていたようでした。
夜遅く帰ってきた彼女に、私自身ふらふらする体で、「ねぇ、パパの体の向きを変えたいんだけど、ちょっと手を貸して」と頼むと、顔色がサッと険しくなります。それを見るのはつらいものでした。それで私は、「あ、いいよ。一人でやるから」と言って、ありったけの力を込めて主人の体の向きを変えるのでした。しかし、人間の体力には限界があります。私は息も絶え絶えになり、過労から何度も卒倒してしまいました。
そんな事情を察した教会の金城先生は、見舞いに来てくださって、主人の病床をチラリと見るなり言いました。
「はぁー、こりゃ大変だ。これじゃ、あなたのほうが先に倒れちまう」
先生は翌日、福祉事務所を通して医療扶助を受ける手続きをしてくださり、主人を日本医大病院に入院できるようにしてくださいました。
「それにしても、きみは良妻賢母の鑑(かがみ)だ」
先生は私の介護ぶりを見て、感心したように言いました。神様がくださった女性の特性をフルに発揮している、ということでしょうか。何だか恐縮してしまいました。
元気な頃の主人は、日々の買い物に使うお金の出し入れには細かい人でした。そのくせ、私が家事、育児にかまけて、なりふりかまわず所帯じみていくのは嫌がりました。
「家事はメイドにやってもらえばいい。でも、起きている間はお化粧して、きちんと身づくろいしていてほしい」と言い、そのための費用は惜しまず渡してくれました。それで長女に、「ママからおしゃれと信仰を除いたら、何も残らない」とからかわれるほど、おしゃれには抜かりなく気を配りました。幼い頃、義父の洋品店で、店内の服を取っかえ引っかえ試着しているうちに、おしゃれ心が養われ、目が肥えていったせいもありました。
しかし主人が倒れてからは、おしゃれどころではありませんでした。いつも時間に追われ、寝るひまも食べるひまもありません。困難に出くわすたびに、「イエス様、イエス様」と呼び求めるのみでした。新聞を読むひまもありません。読むのは聖書だけです。これはどんなに疲れた時でも、読む気力が湧いてきました。
「巨人軍の王選手の名前も、美空ひばりの名前も知らないのはママだけね。ママは19世紀の女性とおんなじよ」と、娘たちがからかうのも、もっともでした。
あまりの忙しさのため、注力が散漫になってしまい、失敗したり勘違いしたりといったことも日常茶飯事になっていました。まっすぐ歩いているつもりでも、脇の人にぶつかってしまうこともよくありました。それで次女などは、「ママから、そのそそっかしさと信仰を除いたら、何も残らないわ」と言うのでした。
日本医大病院に入院して間もなく、主人は高熱を伴う膀胱炎を起こし、血尿が出るようになってしまいました。主治医がどんなに検査しても、その原因がわかりませんでした。
そんなある日、私は元気だった頃の主人がいかに大食漢であったかを、ふと思い出しました。たとえばお茶は、一日に五升(9リットル)入りの大やかん三つ分くらい飲み干しました。丼15杯のうどんと、餃子300個をいっぺんにたいらげたこともあり、お腹はいつもビヤ樽のようでした。
ところが病院の食事は、一日分としてお茶が湯呑み三杯、重湯一杯、ミルクとジュースとで三倍と決められていました。でもこれだけですと、主人の体は水分が不足してしまいます。それが膀胱炎の原因ではないでしょうか。
そのことを主治医に申し上げ、それ以来、一回の食事に丼三杯の水分を与えるようにしてもらいました。すると思ったとおり、熱はピタリと下がり膀胱炎は癒やされました。主治医も張り合いを感じたらしく、神経の働きを回復する注射や特効薬を、どのどん投入してくださるようになりました。
こうして日に日に神様の癒やしの御手が差し伸べられていき、二年後には車いすに移りました。やがて、歩行器で病院内をトットッと歩けるまでになりました。食事はこれまでのように、鼻から重湯やミルクなどを流すしかありませんでしたが。私は主人が転ばないように、後からかいがいしくついて回りました。お見舞いに来られた金城先生は、主人の歩く姿に驚いておられました。
「おー、やっとるやっとる。奇跡が起こった。こりゃすごい」
ヨチヨチ歩き始めた孫を見守るかのように目を細めながら、手を叩いて喜んでくださるのでした。
「それにしても君は不死身だね。ふつうの女性なら、一週間介護しただけで音を上げてしまうのに」
私の気力、体力も、祈りを通して神様がくださるのです。主人はソウルで倒れて以来、何度となく医師から「今晩が峠です」とか、「間もなくご臨終です」と言われてきました。そうやって追い詰められるたびに、私は医学で説明できる範囲を越えた神様の奇跡の業が起こると期待し、信じて祈り求めました。
―死んだ者を、生かすことのできる主よ。どうぞ、主人を生かしてください。五年かかっても十年かかってもいいです。―と、それこそ三度の食事もそっちのけで、絶えず叫び求めてきました。そして、そのつど祈りは聞かれ、神様は絶大な愛と奇跡の力をもって臨み、主人は奇跡的に息を吹き返しました。
(とうに死ぬはずだった主人が、今日もこうして生かされている。再び戻らない今日この一日、生かされていることの尊さよ!)
それを思うたび、命を支配されている神様の力をまざまざと見せつけられる思いで、恐れおののきました。
このように神様は生きておられ、心も体も弱り果てた人々に「生きよ」と叫びかけ、再起させてくださるのです。そのために、神のひとり子イエス様は、ご自分の命をお捨てになりました。私たちは、それほどまでに神様に愛されている―。その神様のこの上なく深い慈しみが、ひしひしと身に迫ってきました。
人間は、この神様の力なしには生きられません。しかし多くの人々は、神様が現実に生きておられ、悔い改めた者の罪を赦し、新しい命を注いでくださることを知りません。
私は、胸躍るような喜びと感謝に燃えて、この神様を生涯通して証しせずにいられなくなりました。そのために牧師の道をめざして、主人の闘病生活が二年目に入った1969年、日本聖書神学校に入学しました。介護の合間を縫っての通学でしたが、学べば学ぶほど伝道意欲がかき立てられ、熱が入るのでした。日本に帰る時、「伝道しなさい」と言われた神様は、たしかにこうして一歩一歩ご計画を進めてゆかれました(続きは来週掲載予定)。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています))
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。
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