翌1949年には長女恵芝(けいし)が、54年には次女恵參(けいじん)が生まれました。主人は、「この次は男の子が欲しい」と言うので、夫婦で心を一つにして神様に祈り求めました。そして58年に待望の長男志天(してん)を授かりました。主人は、もう大喜びでした。自分のベッドの脇に志天のベビー・ベッドを並べて、三日間ろくに眠らず、志天の顔を飽きずに眺めていました。
三日目の夜中、ベビー・ベッドの側でいきなりドーンという音がしたので、驚いて目を開けてみると、何と主人が自分のベッドから転がり落ちたまま、グーグー寝ていました。三日間、ろくに寝ていなかったからでした。
「男の子ひとりじゃ足りないね。三人欲しい」と主人が言うものですから、今度も二人で神様に祈り求めました。神様は、翌59年に次男志人(しじん)を、60年に三男志聖(しせい)を授けてくださいました。
独身の頃、私はこんな願いを神様に申し上げていました。
―神様。私はお医者さんと結婚して、洋館に住みたいのです。子供は女の子二人、男の子三人ください。―
当時韓国では、若い女性は皆こういう結婚にあこがれており、最高の祝福と見なされていました。そして、私の祈りは全部聞かれたのでした。私は幸せでした。こんなに幸せでいいのだろうか、と思うほどでした。
それまで、祈って聞かれなかったことは一度もありませんでした。「マルコの福音書」9章22節で、ろうあの霊に憑かれた息子の父親が、イエス様に、「もしおできになるものなら・・・お助け下さい」と申し上げました。それに対してイエス様は、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」とお答えになられました。
つまり、聞かれるかどうかわからないけれど、という半信半疑の祈りなら、しないほうがいいのです。「神は全能者。だから私には不可能でも、神には不可能はない」という信仰を、毎日毎日心の中に入れて祈るのです。私たちが救われたのは、信仰によってです。だとしたら、願いが聞かれるのも、すでに得たりと信じる信仰によってなされるわけです。自分の思いを神様に完全に明け渡して、百パーセント信頼しない限り、神様だって働くことがおできにならないのですから。
洗礼を受けたのは結婚して6年後、26歳の時でした。子供たちもそれぞれ中学生時代に洗礼を受けました。主人はソウルの中国人教会に通い、私は韓国人教会に通いました。
~「乞食ママ」と呼ばれて~
朝鮮半島は、第二次世界大戦後南北に分断され、その統一をめぐって、北緯38度線の境界線で軍事衝突を繰り返していました。
話は少し戻りますが、長女恵芝が生まれて間もない50年6月25日、北朝鮮が38度線を突破したため、国連軍が参戦して朝鮮戦争が勃発しました。鴨緑江北岸まで後退した北朝鮮を支援するために、中国軍が参戦しました。国連軍は38度線の南に後退して戦線は膠着状態に陥りました。その後、休戦会談が開かれ、53年にひとまず休戦に入りました。
しかし、戦火におおわれた朝鮮全土は、あたかもローラーで繰り返し踏みつぶしたように荒廃し、韓国国内だけでもおよそ五百万人が戦死したそうです。私たちの住むソウルの一角は、どうにか焼失をまぬがれました。
当時、乳飲み子だった恵芝は、乳を欲しがってよく泣きました。その本能的ともいえる意欲は、独身時代の私が知らなかったものでした。過酷な状況の中にあっても、生きようとするそんな我が子を見ていると、私自身の内からも、生きる意欲がみなぎってくるのでした。
私が5歳の時から受けてきた信仰上の迫害、ひとり暮らしや行商の体験などは、私を同世代の娘さんより早く大人にさせ、たくましく成長させてくれました。しかし出産という新たな体験によって、女性は生命を育てるという役目を全うできるだけの強さを、神様から与えられていることを知りました。それは、独身時代に私が身につけてきたのとは異なる強さだと思います。「女は弱し。されど母は強し」ということわざが示すように。
朝鮮戦争休戦後、ソウルの町の至るところに、親兄弟を亡くしたり生き別れになってしまった戦災孤児がたむろしていました。どの子もガリガリに痩せこけ、裸足同然でぼろぼろの服をまとい、掘っ立て小屋や橋の下、路上などで、肩を寄せ合うようにして生きていました。
私は彼らの姿が、ひとり暮らしをしていた頃の自分の姿と重なって見えてきて、他人事とは思えませんでした。そこでさっそく、わが家のメイドさんにも手伝ってもらって、家の裏門で炊出しを始めました。始めのうちは、主人に内緒でした。やがて、この炊出しのうわさが広まっていき、毎日たくさんの孤児が裏門に集まってくるようになりました。その中には、家族も仕事も失った大人も混じっていました。
結核などの病気にかかっている子、全身が皮膚病に冒されている子、ハンセン病の娘さんなど、17,8人の子供たちを、病気が治るまで順番に家に引き取って世話をし、孤児院に入る手続きを取ってあげました。その中の3人は、それぞれ結婚するまで家で面倒を見てあげました。
そんなわけで7人家族のわが家では、孤児たち、メイドさん、主人の医院の薬剤師など、同居人のほうがつねに多く、いつもにぎやかでした。私が孤児を連れ帰るたびに、幼い恵芝は、「ママは、また天国に行く準備をしているのね」と言いました。私はいつの間にか、誰が呼ぶともなく「乞食ママ」と言われるようになりました。やがて日本に帰って、東京・山谷で、大人のための「乞食ママ」になろうとは、当時、神ならぬ身の知るよしもありませんでした。
「私が死んだら、財産はあなたのものだけど、あなたはそれをたぶん貧しい人のために全部使い果たしてしまって、無一文になるんじゃないか。少しは、自分の生活のことも考えなさい」
私は、神様が責任を持ってくださるのだから、財産を残そうという気持ちにはなれませんでした。でも主人は、資産家ではあっても、もともとお金の使い方には細かい人でしたから、それ以来私には家計を任せてくれませんでした。
私が買い物に行く時でも、必要額だけしか渡してもらえなくなりました。買い物から帰ると、「○○店に行ってまいりました」と、いちいち報告しました。しかもネギ一束30ウォン、卵10個80ウォン、白菜二個100ウォンというふうに全部書き出して、釣銭と一緒に渡さなければなりませんでした。ですから私の自由になるお金はビタ一文もなく、ヘソクリを蓄えることもできませんでした。
そうなると無収入の私は、教会の礼拝献金を捧げることができず、炊出しの費用も自分で稼いで捻出しなければならなくなりました。そこで日本語とハングルの通訳の仕事を見つけて、昼間働きました。孤児や、わが子の世話はメイドさん二人にまかせました。
前にもお話ししましたが、日本の化粧品メーカーのシミ抜きクリームが韓国女性の間であいかわらず評判でしたので、それを台湾人から仕入れて売ることも始めました。主人の医院に来る女性の患者さんたちは、体調が悪いせいか顔色もさえず、シミが目立ちました。私の仕入れたクリームを、彼女たちは喜んで買ってくれました。その収益の中から、手の切れそうな新札はすべて教会の献金に使うことに決めました。
―主よ。感謝します。これはあなたのものです。―
そう祈って聖書の間に挟んでは、次週の礼拝に備えました。献金は種まきと同じです。たくさん献げれば、たくさん恵みを収穫できます。これが神様の法則なのです。事実、シミ抜きクリームはわずかな間に飛ぶように売れました。それで私の献金額は、時には収入の10分の8から10分の9にもなりました。
~主人が危篤?そんな馬鹿な~
前にもお話しましたが、主人は亡命の身でした。その辺の事情にはいろいろと複雑な背景があるらしく、私も聞かされていません。私たちは韓国籍を得ることができないばかりか、政情不安が続く中で、主人の財産までも没収されてしまいました。主人は、中国人と日本人の混血である子供たちの教育や将来について、ずいぶん考えたようです。そして韓国に残るよりも日本に帰国して、日本人に帰化したほうがいい、という結論に至ったのでした。
そこで長女の恵芝は、ソウルの高校を卒業する前、東京の早稲田大学を受験して合格しました。それを機に、一家で日本に引き揚げることにしました。しかし、主人はビザ(入国査証)の関係で日本に移り住むことができず、単身ソウルに残り、時々子供たちの顔を見に韓国と日本を往復することにしました。
でも親子、夫婦がそのように離ればなれに暮らすことで、これから先、果たして家族のきずなを保っていけるのだろうか。いったいこれは神様の御心なのだろうか。私は答えを祈り求めずにはいられませんでした。ですが、連日祈れど答えがありませんでした。2週間後、ついにしびれを切らして神様にこう訴えました。
―神様。あなたは私たち一家の運命の責任者じゃないですか。責任をとってください。―
まあ、厚かましいと言おうか、押しが強いと言おうか。神様のほうでも、あまりしつこく食い下がられると、責任を取らざるを得ないらしく、16日目になって、はっきりと導いてくださった。
―恐れることはない。子供たちを連れて、安心して日本に帰りなさい。帰ったら、伝道するのですよ。―
―えっ。伝道するんですか、この私が?牧師でも何でもない、ただの信徒にすぎないのに。―
その時は“伝道”と言われても、何だかピンと来ませんでした。というのは、私は韓国に住んで20年余りもたっており、日本語を使う機会はほとんどありませんでした。それで、心にある思いが即日本語になって出てこないもどかしさを、何度も味わっていたからでした。帰国したら、日本語をどうやって覚えようかと思案していたほどでした。
そんなわけですから、多分神様は、「在日韓国人に、ハングルを使って個人的に伝道しなさい」と言われたのだ、それなら私にも何とか務まるだろうと、勝手に理解していました。
こうして1968年3月、私は子供5人を連れて日本に帰って来ました。当座は東京の知人宅に世話になり、間もなく幸運なことに東京・足立区の都営住宅に入居できました。6畳、4畳半、6畳のダイニング・キッチンという2DKでしたが、まずはほっとしました。
近所の善隣キリスト教会にも一家で通い始め、私はその教会が運営しているキリスト教主義総合病院に事務員として就職することもできました。
単身ソウルに残った主人は、以前お世話してあげた医師の家に同居することになりました。かつて、わが家で養女のようにして結婚するまでお世話してあげた娘さんが、結婚後ソウルの中国人街で暮らしていました。主人は、その家で毎日食事をすることになりました。
その婦人が後日くださった手紙によりますと、人一倍子煩悩な主人は、子供たちが東京から送った手紙を見ては、よくひとりで涙を流していたというそうです。そんな主人がかわいそうでならず、心配でもありました。何とかして、一日でも早く日本に入国できて、親子7人水入らずで暮らせるようにと、祈らずにはいられませんでした。結局、神様はその祈りに対し、私の思いもよらない方法で答えられ、入国させてくださることになるのですが。
別居して1年後の1969年、「世界バプテスト大会」が東京で開催されることになりました。主人の所属するバプテスト系の中国人教会からも、数人参加することになり、役員をしていた主人もそのひとりに選ばれました。しかし、入国ビザの発給が許可されたのは、主人と中国人牧師の二人だけでした。これも神様のご計画の中にあったことだと、後になってわかりました。短期の観光ビザでしたが、ともかく入国でき、別居一年後に再会できると知って、私も子供たちも大喜びでした。
ビザが発給されると聞いていたその日、ソウルから一通の電報が届きました。受け取った瞬間、何か嫌な予感がしました。果たして、その電文にはこう印字されていました。
「オウセンセイキトク スグコイ」
晴天の霹靂(へきれき)とは、まさにこのことでしょう。発信人は、長年親しくさせていただいてきた中国人医師Aさんでした。
(主人が危篤?そんなバカな。何かの間違いだ)
(続きは次週掲載予定)
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています))
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。
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