~義母の迫害に耐えながら~
私だって義母に叩かれた直後は、「この世に、神も仏もあるものか」と自暴自棄になったこともあります。しかし、すぐに気持ちをまっすぐに立て直すことができたのは、幼な心に植えつけられた、この単純で力強い信仰のおかげです。
義母の監視の目に妨げられて、教会に行くことはできなかったのですが、隠し持っていた聖書をひっそりと読み続け、聖句が柔らかな心に植えつけられていきました。高等小学校卒業後、義父は私を高等簿記専門学校に進学させてくれました。手に職をつけておけば、いざという時役に立つと思ったようです。そのことを今でも感謝しています。
1941年、太平洋戦争が勃発しました。私は専門学校で女子挺身隊の隊長となりました。小柄なくせに声が大きく、5歳まで1人っ子で育ったにしてはリーダーシップがあり、楽天的で積極的だったからだと思います。卒業後、福岡県庁に就職しました。2年後に福岡簡易保険局に転勤しました。
敗戦の色が濃くなった45年、義父は盲腸炎の手術後、腸閉そくを起こして亡くなりました。それから間もなく、一家4人で釜山にある義母の実家の近くに疎開しました。この地も当時は日本の植民地でしたが、義母は博多で何かと差別扱いを受け、肩身の狭い思いをしてきたので、夫のいない日本で暮らす気になれなかったのも無理はありません。
私は、釜山の慶尚南道道府や、日本人の経営する会社の秘書課や経理課で働きました。
私の信仰に対する母の迫害は、釜山に疎開してから一段とエスカレートしていきました。もともと激しやすい性格だけに、私の顔を見ると心の奥の憎しみの火種がかき立てられるらしく、火に油を注いだようになります。そういう自分を、自分で抑えることができなくなって、私をののしりだすと止まらなくなるのでした。
「このヤソめーっ。ヤソを捨てろ!」
しかしどんなに言いつのっても、私は決して首を縦に振りませんでした。
「これだけ言ってもヤソが捨てられないのは、おまえのからだに悪霊が取り付いているからだ。追い出してやる」
義母はそう言うなり、金火箸や皮のベルトで私をビシビシ叩きのめしました。それで私の手足には、蛇がとぐろを巻いたような形の青黒いみみずばれが絶えませんでした。しかしそんなしうちを受けても、一度も義母を憎いと思ったことはありません。そんなふうに怒り狂っていく義母が、むしろ哀れでなりませんでした。
(かわいそうなお母さん。どうしてそんなに毎日毎日、夜が明けるなり一刻たりとも人を憎まずにはいられないの)―ああ神様。お母さんを赦してあげてください。お母さんの心を洗い浄めてください。―と祈るだけでした。
韓国では、「口の悪い人に、心の悪い人はいない」と言います。義母も根っからの悪人ではなく、性格が厳しいだけで、日々そのストレスを私に向けて吐き出していたのではないのでしょうか。ただ、宗教に対する憎しみは、ふつうの憎しみとは質の違う、もっと根深いものがあるようでした。
義母は、時々祈祷師を家に招きました。祈祷師は、何やらわけのわからない呪文を繰り返してわめいたり、丸いお盆のような形の、彼ら特有の太鼓を叩いて踊り狂いました。祈祷師と義母は、私を座らせると、キリスト教を捨てるように迫りました。そして祈祷師は、強い口調でこう宣言しました。
「おまえの服には、悪霊が取り付いている」
それを聞いた義母は、私が博多から持ってきていた衣類を全部焼き捨ててしまいました。それでも私は、一度も口答えをせず黙って耐え、ただ涙を流していました。すると義母は、「なぜ口をきかない。おまえはしゃべれないのか、耳がきこえないのか」と言いがかりをるけました。しかし、ひとことでも言い訳しようものなら、「親に口答えした」とばかり逆上するに決まっていました。
義母が私に怒鳴り始めると、近所の人たちは、「さあ、あのののしりババァのところで、また始まった」とばかり、覗き見しに来るのでした。家の前を行ったり来たりする姿が、生け垣の隙間からチラチラと見えます。花も恥じらう十八、九の娘にとって、それがどんなにつらいことだったでしょうか。
そんな毎日でしたが、私は、「いつも、にこにこしている」と言われました。別に笑っているわけではないのに、ほほえみを自然に漂わせている人がいます。私もそうでした。山羊は、絶対下痢をしないといいます。そういえば、いつでもコロコロと乾いた糞をします。それで近所の人たちは、「春子(チュンジャ)さんの怒った顔と、山羊が下痢をするのは見たことがない」と言って関心しました。
「あの娘さんなら、どんなに気難しい姑とでもうまくやっていける」とか、「五臓六腑のない人だ」等とも言われました。
私は、産みの母に捨てられてしまったとだけ聞かされていました。義父が私を誘拐同然に母のもとからもぎ離したとは、つゆだに知りませんでした。昔から「産みの親より育ての親」ということわざがあります。曲がりなりにも、私を同じ屋根の下に置いてくれて、当時進学する人が少なかった専門学校にまで入れてくれた、大恩ある育ての親を粗末にしてはならないと、肝に銘じてきたのでした。
「君(天皇)に忠義、親に孝行」という道徳を、学校でも徹底的に叩き込まれたせいもあります。私を、実子以上にかわいがってくれた義父に死なれたことも、義母につらく当られることも、神様が私に与えなさった運命なのだから、受け入れるしかないと思いました。もし私がイエス様を信じていなければ、きっと生母を恨み、義母を恨み、自分の生い立ちを呪ったに違いありません。
義母が迫害するたびに、イエス様が人々からののしられ、つばを吐きかけられ、十字架上に釘づけられたお姿を思い浮かべました。あのお苦しみに比べたら、私の苦しみなどなんでもない―。そう思えてきて、耐えることができるのでした。そして、そのつどこう祈るようになりました。
―主よ。あなたの十字架のお苦しみを、万分の一でも味わうことができますことを感謝いたします。―
信仰は、苦しければ苦しいほど、それに比例して燃え上がることも知りました。もちろん、教会に行くことも洗礼を受けることもできませんでしたが、もう一日たりとも、いや一時間、一分、一秒たりとも、イエス様から離れることはできなくなりました。
―「あなたがたを捨てて孤児にはしない」とおっしゃるイエス様。どうか助けてください。いつも私と一緒にいてください。―この祈りが、口から絶えたことはありませんでした。
釜山という町は、緯度は関東地方と大体同じですが、冬になると海からの風が吹き込んで、冷え込みが特に厳しいです。そんな真冬でも、私は義母に命じられるままに、川の氷を割っては、手がちぎれて無感覚になってしまうくらい冷たい水で毎日洗濯しました。
ある冬の朝、山のような洗濯物を洗い上げて家に戻ってきました。その朝の冷え込みは格別でしたし、洗濯物の量もいつもより多くありました。それで、さすがの義母も、「ご苦労さん」のひとことぐらい言ってくれるのではないかと思ったのですが、とんでもないことでした。
「何だ、この洗い方は。Yシャツの襟なんか全然垢が取れてない。やり直しなさい」
私を怒鳴りつけるなり、せっかく洗い上げた衣類を台所の流しの側溝に投げ込みました。衣類は、汚水まみれになってしまいました。
当時、水道は給水制限がなされ、一日のうち数時間しか水が出ませんでした。それで、炊事用の水は桶に溜めておくことにしていました。その水を、義母は私の頭から浴びせかけました。私は寒さと恐ろしさとで体中が震えだし、上下の歯の根が噛み合わなくなりガチガチと音を立てました。こんなことは一度や二度ではありませんでしたが、そのつど歯を食いしばってはがまんしてきました。そのため、ついに歯の噛み合わせがずれるほどになってしまいました。
~恐れるな。我汝とともにあり~
1947年の秋、19歳になった私は一人で家を出ました。義母の仕打ちに対し、我慢に我慢を重ねてきたものの、ついに耐えきれなくなってしまったからです。勤務先も辞め、釜山から離れたサンキリ峠の麓にある東来町で下宿を探して引っ越しました。このあたりは釜山に比べて、借家や下宿の家賃が安かったからです。この町は温泉で有名でした。
OLをしていた頃は、給料のほとんどを義母に渡していたので、私の貯金はわずかなものでした。下宿代を支払い、当座必要な鍋、釜や日用品を買うと、無一文同然になってしまいました。その代わり誰にもはばからず、教会に通うことができました。しかし一人住まいを始めてみると、自分は天涯孤独であり、神様以外に頼れる相手がいないということを、今更ながら痛感させられました。
―神様。これからどうやって生きていったらいいのでしょうか。―
晩秋のサンキリ峠は、一面燃えるような紅葉で私を招き入れてくれるようでした。神様は自然をこれほどまでに美しく装わせてくださっている……。
そんな情景を眺めているうちに、誰もやってこない早朝、この山の中でたき火でもしながら、これからの身の振り方を考えてみようと思い立ったのです。そこで大きな竹ぼうきを買って肩に乗せ、夜の明けきらないうちに山道を分け入っていきました。
周囲一帯は松林でした。東の空に朝日が昇って来る頃、細くくねった山道の一角に、赤茶けた松葉が吹き寄せられている窪地を見つけました。ここなら風も来ないだろう。さっそく松葉をほうきで掻き集めて、たき火を始めました。じーっとしていると、あたりに漂う晩秋の冷気が身に浸みてきました。
こういう山の中に一人きりでいても、少しも怖いとは思いませんでした。誰にも気兼ねしなくていいのだと思うと、むしろ安らげるのでした。たき火のぬくもりに抱かれているうちに、神様がそばにいてくださるという実感が湧いてきて、その喜びが心を素直に解きほぐしてくれるようでした。私は生まれて初めて、神様に向かって思いっきり叫び、泣くことができました(続きは次週掲載予定)。
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森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。
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