~恐れるな。我汝とともにあり~
―主よ。私はここにおります。答えてください。なぜ私だけ、みんなの苦労を一人で背負ったかのように次々と苦しみがやってくるのですか。なぜ私はこんなに鞭打たれ、孤独な人生を歩まなければならないのですか。―
それは、ものごころついて以来、18年もの間、積もりに積もった魂の叫びでした。その全身全霊を賭けた叫びは、堰を切ったかのように次から次へと波のように押し寄せてきて、自分では押し止めることができなくなってしまいました。
―主よ。なぜですか。なぜですか。主よ。あなたが本当におられるのだったら、答えてください。主よ!―
その時、どこからともなくこんな声が聞こえてきました。
―恐れるな。我汝とともにあり。―
驚いて、思わずあたりを見回しました。もちろん、誰もいるはずがありません。この声の主こそ、天地を創造された神ご自身の御声だとわかった時、全身がカーッと熱くなり、電気に打たれたかのようにビリビリと震え始め、それが止まらなくなりました。心には、言いようのない感謝と喜びが湧いてきました。
―神様が、私とともにいてくださるのだ。何を思い煩うことがあろうか。―
もう勇気百倍になりました。ふっと、あたりを見回すと、松の枯れ葉が山のように散乱しています。「どうぞ拾ってください」と言わんばかりです。ここに登ってくる時は、夜が明けきってなかったので気づきませんでした(そうだ、この枯れ葉を薪として売ればいい)。
朝の光の中で、枯れ葉の一つひとつが宝物のように輝いて見えました。神様は私をサンキリ峠に導き、直接呼びかけてくださったばかりか、収入を得る知恵まで与えてくださったのです。神様は目に見えなくても、このように聖霊によって親しく語りかけてくださり、祈り求めるなら必ず答えてくださるのを知りました。
ただし、口先だけの祈りや人に聞かせるだけの祈りは聞かれません。魂の奥底から全身全霊をもって呼び求める祈りだけが、神の前に届くことも知りました。このように、キリスト教とは生きておられる神との応答の中に生きる啓示宗教なのです。そして祈りを通して、そのつど神からの励ましや慰め、確かな導きを得て、それに従っていくのがクリスチャンなのです。
万物の霊長である人間そのものが、神の姿に似せて造られたゆえに、人間の霊は神と通じ合えるのです。それがはっきりわかった私は、この日を境に、「神様は、私をどのようにお用いになりたいのですか。私は何をなすべきでしょうか」と神様の御心を尋ね求めるようになりました。神様は祈るたびに答えてくださり、なすべきことや語るべき言葉も、一つひとつ与えてくださるようになりました。
この神様との交わりにまさる幸せはありません。毎日が喜びと感謝で胸躍る思いでしたから、およそ悩みらしい悩みはなくなってしまいました。
毎朝サンキリ峠に分け入っていき、枯れ葉を拾っては温泉町に売り歩き、そのわずかな代金を元手に米を仕入れて行商し、さらにその利益を元手に、より利幅の大きいゴム靴、下着等の行商を始めました。5歳の時から養父の商いを見て育ったせいか、商売に向いていたようでした。
~「やっぱりヤソが本物だった」~
「金南順さん、刺されて危篤状態に」
数カ月後のある朝、新聞の三面記事にこんな大見出しを見つけた私は、天地がひっくり返るほど驚きました。「金南順」とは、間違いなく義母のことだからです。
当時、朝鮮半島に上陸していた連合軍の一黒人米兵が、義母の家に侵入。抵抗する義母の頭を、ナイフで15カ所も刺して逃亡した、という事件でした。犯人はすぐに逮捕され、アメリカに強制送還されて入獄したそうです。
義母は、病院に運ばれて九死に一生を得たものの、私が見舞いに駆けつけた時には、まだ意識がもうろうとしていました。頭は包帯でぐるぐる巻かれ、牛の頭ほどの大きさになり、そこから血が浸み出し、目のまわりだけが包帯の間から出ていました。それを見た私は、卒倒してしまいました。
義母は3カ月で退院できたものの、以前から結核にも感染していたらしく、この怪我が引き金になって喀血し始めました。そういえば、決して丈夫な人ではありませんでした。いつも家事全般を私に押し付けてきましたが、それは思うように体が動かなかったせいもあったようです。
病状は悪化していき、やがて死期に近いことを悟った義母は、死を恐れるようになりました。人は、なぜ死を恐れるのでしょうか。それは、神を信じようと否と、死後必ず神の前に立たされ、生前の生きざまについて裁判を受けなければならないのを、ほとんどの人が心の奥底で知っているからです。
何とかして、神様に義母の魂を救っていただき、この病気を癒していただきたいと願った私は、必死で祈り出しました。そして、義母の心が開かれるようにと祈りながら、行商の合間にキムチや手料理、みそ、醤油まで作って病床に届けました。
ある日、東来町の町内会事務所の庭の大木に、長さ1・5メートルもの蛇の死骸がひっかかっていました。それを子供たちが棒でつついていました。(そうだ。蛇は煎じて飲めば薬になると聞いたことがある。義母に飲ませれば、結核が治るかもしれない)
それで、子供たちに頼んでみました。
「ちょっと、ちょっと。その蛇、私にくれない?」
「あ、いいよ」
子供たちは、あっさりと譲ってくれました。私は、その大きな蛇のぬるりとした冷たくて重い胴体を、手でつかんで枝から引っ張り下ろし、ぐるぐる巻いて風呂敷に包みました。義母に治ってもらいたい一心で、もう、気味の悪さも怖さも吹っ飛んでしまいました。
聖書には、「完全な愛は恐れをとり除く(Ⅰヨハネ4・18)」とあります。事実、愛に満たされると恐れは感じなくなるものです。私はもう嬉しくて嬉しくて、ずしりと重い蛇の入った風呂敷包みを義母の病室に持って行きました。
その頃義母は、体を真っ直ぐにして寝ることすら辛くなっており、背中に布団と枕を当てがって、かろうじて上体を支えていました。私は、蛇の入った風呂敷包みを持ち上げて見せて言いました。
「お母様、お母様。あの、いいお薬持って来ましたよ。これね、ここに来る途中でもらってきたの。煎じて飲んだら絶対精がつきますよ」
「何かね」
義母は、顔だけ私のほうに向けて、だるそうな口調で言いました。昔から私の顔を見る時は、クイッとにらみつけるようにし、ぞーっとするような怖い表情になりました。それは、病気になってからも変わりませんでした。ちょうど、お見舞いに来ていた隣家の男の人が、「何ですか」と言いながら風呂敷の中を覗き込んで言いました。
「何だ、これ。ヌングリ(青大将)じゃないの。これは薬にはならんよ。サルムシ(まむしの一種)じゃないとだめだ」
言われたとたん、にわかに恐怖心が押し寄せてきました。
「わーっ、おじさん。この蛇捨ててください」
その蛇を見るのも恐ろしくなって、目をそむけながら頼み込む始末でした。その人は病室の裏の皮に風呂敷包みごと持っていき、蛇だけポンと投げ捨てました。私もついていって、恐る恐る川面を覗き込みました。蛇は背中の方が重いらしく、水中で胴体がくるりと一回転し、真っ白い腹を上にして流れていきました。その情景が未だに私の脳裏に焼き付いてしまっています。人の記憶とは妙なものです。憶える必要のないものを、いつまでも憶えているのですから。
「南順おばちゃんが、会いたいんだって」
ある日、親戚の子供がそう言って、私をわざわざ呼び出してくれました。義母は、病室のベッドの中から、骨と皮だけになってしまったような手を差し出して、わたしの手を握りしめました。そして何を思ったのか、ボソボソとした低い声でこんなことを言い始めました。
「春子(チャンジャ)や。あなたは小さい時、本当にかわいくて、みんなから“アリラン春子”と呼ばれていたのよ」
「…」
私は驚きのあまり、絶句してしまいました。義母の声も言葉も、今まで一度も聞いたことがないほど、やさしさに溢れていたからです。
「あなたは、私がどんなにひどいことを言っても、一度も逆らわなかった。よく耐え抜いてくれたね。私の性格が悪かったのよ。赦してちょうだい。あなたは、私を恨んでも恨みきれないはずなのに、どんなに親孝行してくれたことか…」
(まぁ。これは一体どういうことだろう)
私はもう、ただただびっくりしてしまい、胸がドキドキしてきました。更に驚いたことに、義母ははっきりとした口調でこう言いました。
「あなたはヤソ(キリスト教)を信じたけれど、やっぱりヤソが本物だった…」
私は、思わず自分の耳を疑いました。でも間違いなく、この人はそう言ったのでした。そしてこれが、彼女の最初で最後の信仰告白となりました。その数時間後、義母は息を引き取りました。
「ご臨終です」と医師に宣告された時、私は全身の力が抜けて、ヘナヘナとその場にくずおれてしまいました。義母が救われるように、神様に祈り続けてきたその祈りは、ちゃんと聞き届けられていたのでした(続きは次週掲載予定)。
(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています)
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森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。
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