天正6(1578)年11月16日、高山右近はオルガンチノとともに摂津(せっつ)郡山(大阪府茨木市)に陣を進めた織田信長の元へ出向いた。まげを落とし、腰の大小もなく、素足に草履(ぞうり)履き、紙衣(かみこ)一枚きりのみすぼらしい姿であった。
右近を引見した織田信長は、その凄愴(せいそう)な姿にしばし声を失い、太刀(たち)を帯びるよう命じたが、右近はこれを辞退し、「このままの姿で追放して欲しい」と言った。
信長は右近の訴えに耳を貸さず、喜色をあらわにして着ていた小袖を脱ぎ、吉則(よしのり)の太刀とともに右近に与え、秘蔵の名馬早鹿毛(はやかげ)を贈った。さらに所領高槻を安堵し、播州芥川(ばんしゅうあくたがわ)(兵庫県)二万石を加増した。よほどうれしかったのだろう。
実際、高槻城の開城によって、荒木氏の脅威は半減した。荒木軍をサザエに例えるなら、高槻城は堅い蓋(ふた)に当たる。蓋さえ取れば、あとは柔らかな肉を気長につまみ出せばよかった。それほど高槻城の戦略的価値は高かったのである。
信長は右近の出家を断じて許さず、直参の家臣に留め置いた。これは高槻城の価値とは別に、右近の将才を高く買っていたからだった。
信長はこの時期、敵将の投降をめったに許していない。明智光秀の丹波攻めでは、光秀が求めた波多野秀治の投降を許さず、京で磔(はりつけ)にした。このため、波多野氏の人質となっていた光秀の母親が殺される悲劇を生んだ。羽柴秀吉が毛利氏攻略の切り札として求めた宇喜多直家の投降もはねつけた。
将来、織田家の所領が減るという即物的な理由というより、調略する相手が手駒として使いでがなければ、一切情けをかけなかったのである。信長は、苛烈なほど部下の無能を憎み、勇気と清廉さを求めた。右近は信長の厳しい目にかなったのである。
右近の降伏とほぼ同時に、高槻城は開城した。徹底抗戦を叫んでいた右近の父、飛騨守(ひだのかみ)は荒木村重のいる有岡城へ走り、村重に改めて忠誠を誓った。右近の非道を泣くように訴える飛騨守を村重はむげにもできず、人質を殺さなかった。
のちに、有岡城が開城した際、飛騨守は右近の功に免じて死を免れ、北荘(きたのしょう)(福井)に流罪となり、柴田勝家預りとなる。人質になっていた右近の長男と妹は無事助け出された。村重に置き去りにされた荒木氏の一族600人が信長に惨殺されたことを思えば、高山一族は奇跡のような幸運に恵まれたといってよい。
右近の身なりは信長の哀れを誘うための手だったかもしれない。開城にあたっては右近親子が示し合わせて行動した可能性もありうる。右近の行為を崇高な信心の発露と見るか、計算づくの行動と見るかで、高山右近への評価は違ったものになるかもしれない。
だが、絶体絶命の危機のなかで、すべてを投げ打つ勇気を示した結果は、まさしく神の恩寵(おんちょう)に満ちていた。この体験は、右近の信仰心をますます燃え上がらせたに違いない。
下剋上(げこくじょう)の世に、武士であることより、一信者として生きることを優先した右近は、図らずも前田利家と同様、信長直参の家臣となった。利家は右近の降伏をどう聞いただろうか。律義ものの利家は、決して不快には思わなかっただろう。
それから5年後、利家は賎ケ岳(しずがたけ)の合戦で、柴田勝家軍の一翼を担い、古い友人であった羽柴秀吉軍と対峙(たいじ)した。右近とよく似た八方ふさがりの苦しい立場に立たされることになろうとは、このときは夢想だにしていなかった。
■ オルガンチノ
1570年に来日したイエズス会のイタリア人宣教師。京都を中心に布教を行い、高山右近らの協力を得て1576年に南蛮寺を建立した。また、安土にセミナリヨ(神学校)をつくり、多くの信者を獲得した。
温厚な魅力あふれる人物で、日本人信者に「ウルガン伴天連(ばてれん)」と呼ばれ、敬愛された。特に信長の信頼を得たことが布教に大きく役立ち、来日したイエズス会宣教師のなかでも傑出した業績を残した。
秀吉の伴天連追放令後も日本を離れず、キリシタン大名の小西行長の庇護(ひご)を受けて各地を転々とし、1609年に長崎で死去した。