昭和のリバイバル
私の所属する基督聖協団は、教団を挙げてイスラエルの救いを祈り続けてきました。私が聖書学院を卒業して牧会の現場に遣わされた頃には、「イスラエルについてお祈りしている教団の牧師です」と言うと、極端な表現ですが、異端的な団体だと誤解を受けることすらありました。現在、聖協団がイスラエル伝道や、ユダヤ人の救いを祈っていますと言いましても、誤解されたり、反対されたりということは、ほとんどありません。それだけ、このことが日本の教会に認知され、理解されてきたのだと思います。
日本のプロテスタントの歴史の中で、イスラエルに対して最初に関わりを持ち、祈り始めたのは、旧ホーリネス教会の監督であった中田重治先生でした。昭和5年に始まったホーリネスのリバイバル(「昭和のリバイバル」とも言われる)を教導したことでも知られます。
昭和5年5月19日。東京・新宿にあった、東洋宣教会聖書学院に聖霊の火が降り、約四百年前の戦国時代末期から徳川幕府初期にかけてのキリシタンのリバイバルを除けば、日本最大のリバイバルが興りました。このリバイバルから、イスラエルの救いを祈り求めるビジョンが与えられ、様々な紆余曲折を経ながら今日に至っています。
私が神学生の時に、聖協団聖書学院長であり、旧ホーリネスの監督局で当時、中田重治監督の秘書をしていた、故・谷中広美先生からは、昭和のリバイバルの様子が講義などでよく証しされました。当事者の話というのは真実味と迫力があるものだ、ということを本当に実感していつも聞いていました。
夏期伝道などで神学生が二人ずつ日本各地に派遣されていきますと、どんどん人々が救われ、新しく教会が形成され、そのまま教会に留まって牧会するケースが多かったということです。極端な言い方をすれば、あまり神学的な学びもない経験不足の神学生が、資金もほとんどなく、祈りに祈って伝道していった結果、宣教の働きが飛躍的に前進していったとのこと。一週間に一つの教会が形成されていくほどの勢いがありました。そして、そのリバイバルの中で救われていった人々は、驚くほど救いから離れる人が少なかったといいます。聖霊の働きが顕著であった証拠です。
現在、日本の教会の中で、イスラエルに関心を持ち、救いのために働きを継承していくビジョンが与えられている個人、団体、教派の方々は、将来を展望して働きを進めていくと同時に、過去に起こった昭和のリバイバルから示されることにも目を向けなければならないと私は信じています。
昭和の初期、中田重治監督の元で「イスラエルの救い」が祈られるようになりました。今の平成の時代、イスラエルについての祈りや宣教の働きをされている方々が、妥当な評価をされるようになってきましたが、その先鞭をつけた方々に対しても、正当な評価がなされなければなりません。
中川健一師の働き
近年、周りの評価や誤解を恐れずに、聖書信仰の立場からイスラエル問題に取り組んでこられた方に、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの中川健一先生がおられます。先生が、真摯にバランスを保ってユダヤ人伝道に立ち上がる前と後では、流れが一変したと言っても過言ではありません。
私は、宮城県内にある拡大宣教学院の第3回公開講座に中川健一先生が奉仕にこられるとのことで、その講座に出席しました。「福音とイスラエル」というテーマで聖書からイスラエルの救いについて分かり易く説き明かしていただき、驚きの連続でした。私たち聖協団では、「とにかく祈って、イスラエルに対する主の御旨と痛みを自身の信仰の体験として理解する」という指導が中心でしたので、聖書から神学的に分かり易く、さらに確信をもって説き明かしていただいた講義には、目から鱗が落ちる思いでした。
その後、中川先生はLCJE(ローザンヌ・ユダヤ人伝道協議会)日本支部を設立され、聖協団からも多くの教会、牧師、信徒が加入しました。この会の目的の一つであるユダヤ人伝道の啓蒙活動が、実際に大いに祝福されたことは幸いだと思います。その後、雨後の筍の如く、イスラエルに関わる宣教団体が設立され、良い働きがなされています。
個人的なことで恐縮なのですが、私は約三十年前に宮城県の三陸沿岸の女川町に赴任してきました。その前年の秋に教団主催のイスラエル聖地旅行に参加してエルサレムのオリーブ山のホテルで聖霊による取り扱いを受け、燃える思いで帰国したのですが、翌春、田舎の開拓同様の教会に任命され、これでユダヤ人伝道とも縁が無くなったと諦めかけていました。
しかし、銭湯で出会ったあるユダヤ人男性に福音を伝えたところ、彼はナザレのイエスが個人的な救い主であることを受け入れました。またその翌年、教会で洗礼を受けた姉妹の実兄が、イスラエル公認ガイドの榊原茂先生だったのです。私がユダヤ人伝道のビジョンを喪失しないように、神が介入して下さったとしか思えません。
旧ホーリネス教会は、戦前のリバイバル後に東洋宣教会聖書学院の教授派と、中田重治監督派に分離しました。そして今まで、監督派の流れを汲み、イスラエルの救いを祈り求めてきた方々が、積極的にこの問題を取り上げて、その立場を弁明することはほとんどありませんでした。しかし今回、当時のことも含めて、非常に困難な時代に、同胞への宣教と同様にユダヤ人伝道に関わってきた教会の経緯と意義、そして日本のリバイバルの鍵について述べさせていただきたいと思います。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事長、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。