父が、毎朝、弁当を詰めて学校に送り出してくれたので、卒業式には精勤賞を頂きました。父に感謝をしたいと家に帰りましたが、その日は父が帰って来ませんでした。真面目な左官業の父は、無断で家を留守にすることがないので家族で心配していました。翌朝、四、五キロ離れた常盤の発電所の導水管の入り口で水死体で発見され、父は変わり果てた姿で家に運ばれて来ました。額に打ち傷がありました。一張羅のオーバーを着たままでした。
日本は一年間に三万二千人を超える自殺者があります。今は個人の自殺は新聞の記事にもなりませんが、五〇年前は自殺は珍しく地方新聞の記事になりました。
あの日から五〇年になります。開墾地の小屋から、導水路まで、二つの足跡だけが雪の上に続いていたと後日聞きました。父が失望して水路に向かう姿を時々考えます。父の葬儀と会社の入社の日が重なったため迷いましたが、働いてお金を家に入れるのは私だけです。私は隣組の方々に、家のことをお願いして、葬儀に出ないで、信濃大町駅から名古屋に向かいました。一番下の姉が駅まで送って来てくれました。悲しい寂しい旅立ちでした。
名古屋に就職
会社の柔道部に一時入りました。同じ時期に入社したメンバーと土曜会を作って、ハイキングや山登りや、海水浴をしました。互いの考えを文にして、文集を発行しました。
その中で酒を覚え、一升酒を友と飲み明かしました。私は泣き上戸と言われました。
あの頃、「別れの一本杉」が歌われていました。私は良くこの歌を口ずさんだものです。春日八郎のヒット曲でした。歌詞は「♪一、泣けた泣けた こらえ切れずに泣けたっけ あの娘と別れた悲しさに 山のかけすもないていた 一本杉の石の地蔵さんのよ 村はずれ。二、遠い遠い 想い出しても遠い空 必ず東京に着いたなら 便りおくれと言った娘 リンゴのような赤いほっぺたのよ あの涙♪」です。
四年間、冷凍機研究課に配属になり、主にカークーラーの研究に打ち込みました。まだ日本製のカークーラーがありませんでした。夏は窓を開けて、砂埃を吸いながら車を走らせたものです。アメリカのGEのカークーラーを購入し、性能試験をしました。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。