北アルプスのふもとは、私の故郷です。実家から四キロ程行くと木崎湖があり、夏はキャンプやボート遊びや水泳で湖の周囲は人で埋まります。大町は黒部ダムの入り口です。この地は夏は登山口になり、冬はスキー客で賑やかになります。
高野辰之作詞、岡野貞一作曲の「故郷」の歌を、ハーモニカで一人吹きながら、高校まで育った野口の集落を思い出します。
「♪兎追いしかの山 小ぶな釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れ難き故郷
如何にいます父母 つつがなしや友垣 雨に風につけても思いいずる故郷
志を果たしていつの日には帰らん 山は青き故郷 水は清き故郷♪」
どこにいても故郷を思い出す歌詞です。子どもの頃は、山兎を追いかけたり、川で岩魚や河鹿を捕まえるに夢中でした。幼友達と川で泳いだり、神社で野球をして遊びました。
青蛙を地面に叩きつけて、気を失った蛙の皮をむき、その一部の筋肉を真綿につけ、皮をむいた蛙のまま棒の先に付けます。それを唐松のところに餌を求めに来ます地蜂に、食べさせます。その蜂に真綿の肉をくわえさせ、蜂の後を追いかけて蜂の巣を見つけるのです。蜂の子ご飯は戦時中、戦後の最高の御馳走でした。
小学校三年まで、本校まで山道で四キロもあり、分教場に通いました。校長先生の名前は忘れましたが、小林八重子先生のことは良く覚えています。一七名の同級生の西沢政光君と小林厚隆君は地上の旅を終えられました。敬称を付けずに名前を呼び捨てにする仲間は、この分教場の同級生ぐらいではないかと思います。
私は八人兄弟の下から二番目に生まれました。女が五人、男が三人です。兄と、弟がいましたが今は召されて、いません。現在姉が三人と私が元気に暮らしています。一番上の姉は八三歳で、私が生まれた時には、父の保証人倒れのために、大阪の紡績工場に一四歳で働きに出た所でした。数年後、東京に出て、目黒にある個人病院に住み込み女中として六〇年程過ごしました。現在、病院から離れ一人で暮らしています。そのような中でも姉は、NHKの通信講座をいくつも受けて修了していました。本が好きな姉で、私が届ける三浦綾子の本や聖書を良く読んでいます。最後のお世話はさせて戴くからと、あう度にお祈りをしてあげています。神様は、家族のために、子どもの頃から働いた姉を顧みてくださっています。私が姉の近くの教会に来るようになったことも、神様の深い配慮と思います。
工藤公敏(くどう・きみとし):1937年、長野県大町市平野口に生まれる。キリスト兄弟団聖書学院、ルサー・ライス大学院日本校卒業。キリスト兄弟団聖書学院元院長。現在、キリスト兄弟団目黒教会牧師、再臨待望同志会会長、目黒区保護司。